宋申錫
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幼くして父を失って貧しく、文学の才能があった。進士に及第して、秘書省校書郎を初任とした。韋貫之が宰相を退任して、湖南観察使に出向すると、申錫は召し出されて従事となった。のちに節度使の補佐役を歴任した。長慶元年(821年)、監察御史に任じられた。長慶2年(822年)、起居舎人に転じた。宝暦2年(826年)、礼部員外郎となり、ほどなく翰林学士をつとめた[1][2]。
大和元年(827年)、文宗が即位すると、申錫は戸部郎中・知制誥に任じられた。大和2年(828年)、中書舎人となり、再び翰林学士となった[1][3]。
文宗は宦官の権限が強く、王守澄が禁軍を掌握し、鄭注が王守澄と結んで売官しているのを憎んでいた。申錫は文宗に忠臣と見込まれて、外廷の朝臣と図って王守澄らを排除するよう求められた。大和4年(830年)、尚書右丞に任じられ、同中書門下平章事(宰相)に任じられた[1][3]。
大和5年(831年)、申錫は漳王李湊とともに反乱を計画していると、王守澄に誣告された。申錫は太子右庶子に降格され、さらに開州司馬に左遷された。大和7年(833年)7月、開州で死去した。開成元年(836年)9月、名誉を回復されて、正議大夫・尚書右丞・同中書門下平章事・上柱国に追復された。さらに兵部尚書の位を追贈された。諡は貞といった[4][5]。