| 姓名 |
宣秉 |
| 時代 |
前漢時代 - 後漢時代 |
| 生没年 |
生年不詳 - 30年(建武6年) |
| 字・別号 |
巨公(字) |
| 本貫・出身地等 |
司隷馮翊雲陽県 |
| 職官 |
侍中〔更始〕→御史中丞〔後漢〕
→司隷校尉〔後漢〕
→大司徒司直〔後漢〕 |
| 爵位・号等 |
- |
| 陣営・所属等 |
更始帝→光武帝 |
| 家族・一族 |
子:宣彪 |
若くして高い節義を修得したと評され、三輔に著名であった。
哀帝・平帝の代に、王莽が専横し、宗室の権限が削除されていくのを見ると、宣秉はこれを反乱の兆しとみなした。そのため、宣秉は奥深い山に隠遁し、州郡が召しても、病と称してこれに応じなかった。王莽も、宰衡の位をもって招請したが、応じなかった。王莽が新を建国すると、再び使者を派遣して招請したが、やはり応じなかった。
更始元年(23年)、更始帝(劉玄)が即位すると、宣秉は徴に応じて侍中に任命された。
建武元年(25年)、光武帝(劉秀)の下で御史中丞に任命された。光武帝は特に詔を下して、御史中丞が司隷校尉・尚書令と会議をする際には、それぞれに専門の座席を与え、京師(洛陽)の人々はこれを「三独座」と呼んだという。建武2年(26年)、宣秉は司隷校尉に昇進した。宣秉は、職務の重要な部分を把握しつつ、些細煩雑な部分を簡略したため[1]、属僚から敬われた。建武4年(28年)、大司徒司直に任命された。
建武6年(30年)、在職中のまま死去し、光武帝から惜しまれた。子の宣彪が郎として任用されている。
宣秉は節約に努める性格で、常に衣服を布で覆い、野菜を瓦の器で食した[2]。光武帝は宣秉の自宅を訪れて、その生活を見ると、「楚国の二龔[3]も、雲陽の宣巨公には如かず」と感嘆している。俸禄は親族を養うために用い、孤独な弱者には田地を分け与え、自らは蓄えを積まなかった。