『資治通鑑』の記載によると、文帝が仁寿宮で病床についた時、陳氏と皇太子楊広は文帝のそばで看病した。陳氏が着替えに出たところを、楊広が関係を迫り、陳氏はこれを拒んで文帝のところに逃げ帰った。文帝が怪しんで問い質すと、陳氏は楊広の無礼を訴えた。文帝は「畜生、何ぞ大事を付するに足らん。独孤、誠に我を誤てり」といって激怒した。文帝は兵部尚書の柳述と黄門侍郎の元厳を呼んで、廃太子の楊勇を召し出すよう命じた。柳述と元厳がこのことを左僕射の楊素に告げると、楊素は楊広に報告した。楊広は張衡を寝殿に派遣して、陳氏と後宮で看病する人々を別室に移させた。まもなく文帝は死去したが、喪は発せられなかった。陳氏と後宮の人々は事変の発生を察知して戦慄した。夕暮れに楊広からの使者がやってきて、合わせ貼りで封のされたものが陳氏宛てに送られてきたので、陳氏は鴆毒ではないかとおそれて開けられなかった。使者にうながされてしぶしぶ開けると、中からは同心結(愛の契りのお守り)数枚があらわれた。宮人たちは「死を免れた」といって喜んだが、陳氏は怒って席を外し、礼を伝えることもしなかった。宮人たちは使者に返礼するよう陳氏に迫った。その夜、楊広と陳氏は関係した。