九成宮遺跡
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開皇13年(593年)、仁寿宮(じんじゅきゅう)が創建された。隋の文帝は避暑のため、この仁寿宮に六度行幸している。仁寿4年(604年)、文帝が死去したのも、この宮殿においてであった。その後、隋の滅亡とともに仁寿宮は顧みられなくなった[1]。
貞観5年(631年)、唐の太宗は仁寿宮を改修して、九成宮と名づけた。太宗もやはり避暑のため、五度九成宮に足を運んだという。太宗はまた欧陽詢に命じて「九成宮醴泉銘」を書かせ、碧城山山麓に建てさせている。太宗の後を嗣いだ高宗は、八度九成宮に避暑に訪れ、一時万年宮(まんねんきゅう)に改めた。その後、玄宗によって驪山の温泉宮が拡張されたこともあって、九成宮は荒れるに任されるようになった。唐末には洪水が起こって、廃墟と化した[1]。
九成宮遺跡の調査と発掘は、1978年に始まり、1994年まで続いた。その結果、四方を山に囲まれた九成宮には二重の城壁が設けられていることが明らかになった。外城壁は宮殿北側の碧城山と南側の堡子山の尾根に沿って築かれ、北壁と東壁の基壇の一部が現存している。版築工法で築かれた北壁は、碧城山の西南を起点として、弧をえがきながら東に伸びて鎮東村にいたる400mが残っている。その幅は9m。この北壁の内側に、天台山という名の山がある。また碧城山の山頂では、外城壁に設けられた北門の遺跡が発掘されている。門道の幅は3.75m、奥行きは10.7mで、門柱の礎石はすべて確認されている。東壁は幅が9mで、130mが残っている[2]。
『新唐書』地理志によれば、九成宮周囲の内城壁の長さは「千八百歩」であり、換算すると2646mになる。現存している北壁の西端から東壁までが、1010mであることから推測すると、東西両壁の長さは約300mであったと考えられる。また九成宮の南門は永光門、北門は玄武門という名称であったが、このうち玄武門が天台山の西北に設けられていたことが確認されている[3]。
九成宮の内部では、中央部やや東寄りに位置する37号宮殿跡の発掘が完了している。九成宮の主殿(7号宮殿跡)から東へ約120m離れたこの宮殿は、ほぼ正確な南北方向に造られ、北に重心を置き南を臨む配置であった。基壇は東西42.62m、南北31.72mの長方形であり、間口9間、奥行きは6間であった。基壇中央に間口5間、奥行き2間の内殿が建ち、周りを回廊が巡っていた。基壇は黄土を版築工法でつき固めたうえ、東西南北の4側壁を石積みで整然と覆い、その外周には石板を敷いた雨落ちが造られていた[4]。
基壇の南面には、昇降用の二つの階段、すなわち「左右階」が造られていた。そのうち西階段の保存状態がよく、長さは3.5m、幅は4.4m。階段はそで石により三つに分けられ、幅0.91mの中央部分が、「陛」すなわち皇帝専用の「御道」である。これに対し、両側部分はそれぞれ幅0.6mで、一般の官僚が昇り降りした。また基壇の西・北・東の側壁には、それぞれ基壇上の回廊に昇るための上がり段が2か所設けられていた[4]。
基壇上には、1m四方の青石の柱礎があわせて46個現存している。その他の石の部材と同様、いずれも精緻な彫刻がほどこされ、北朝の遺風を色濃く伝えている[4]。
脚注
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。