小喬
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二橋の父について
二橋の父親の素性は、史書には明確に記載されておらず、清の学者の沈欽韓は『両漢書疎証』において、この「橋公」を後漢の橋玄であると推測している。橋玄は太尉にまで上り詰め三公の一人となったことから、「橋公」と尊称されるのも自然である。一方、盧弼は『三国志集解』の中で、張昭や程普がそれぞれ張公、程公と呼ばれた事例を挙げ、必ずしも三公の職に就いていなくても「公」と尊称されることがあると反論している。また、史書には橋玄が淮南や江東地方で活動した記録はない。橋玄は七十四歳で亡くなっているため、16年後に二人の娘がともに結婚適齡期を迎えていたとは考えにくい。近年では、二喬の父親は袁術配下の武将であった橋蕤である可能性が高いと見られている。その説の論拠として挙げるのが次の具体的事実である[2]。
- 橋蕤は孫策と面識があり、特に袁術のもとで働く孫策を高く評価していた。これに対して孫策が「橋公」と尊称で応えるのは、自然なことであろう。
- 橋蕤は曹操との戦いで戦死した。袁術が亡くなると、その従弟の袁胤と娘婿の黄猗は袁術の妻子とその部下の家族を連れて寿春を離れ、劉勲の本拠の皖城へ向かった(『江表伝』)。
- 孫策は皖城の戦いで、もともと袁術に属していた3万人余りを捕虜とした(『江表伝』)。
- 橋蕤の遺族の可能な境遇は、孫策の言う「橋公の娘たちが故郷を失った」という状況によく合致している。
- 後年、孫権は橋蕤の主君であった袁術の娘・袁夫人(彼女も皖城の戦いの捕虜となっていた)を娶り、同様に孫策と周瑜はそれぞれ橋蕤の娘たちを妻としたのであり、このような婚姻関係には何ら不自然な点はなかった。
橋蕤説に基づく推論
前述の説に従えば、二喬の経歴は大体以下の通りである[3]。
初平4年(193年)、孫策は袁術の旗下に入り、やがて懐義校尉に任命された。袁術の古参の大将であった張勲と橋蕤は、その職に就いた孫策を高く評価していた。建安2年(197年)、張勲と橋蕤は共に蘄陽で曹操と対峙したが、橋蕤は城が落とされた際に于禁に討ち取られ、張勲は橋蕤の妻子を連れて撤退した。建安4年(199年)6月に袁術の死後、その親族は袁術および袁術の部下の家族を連れて寿春から皖城へ赴き劉勲を頼ったため、皖城に居を構えることとなった。同年12月、周瑜が孫策に従って皖城を攻めると、袁術や劉勲の妻子を含む、袁術の部曲の男女三万余人を捕虜とした。この中には橋蕤の二人の娘も含まれていた。
亡くなった橋蕤が生前から内心では孫策を尊敬していたため、孫策は皖城を攻略した後、周瑜に向かって「橋公のふたりの娘は故郷を失うことになったが、われわれを婿にすることができたのだから満足だろう」と語ったという。これまで流浪してきた二喬にとっては、まずまず円満な結末と言えるでしょう。そのためエピソードとして『江表伝』に収録されている。
演義、その他
小説『三国志演義』においては、いわゆる「毛宗崗本」など一部の版本において姓を「喬」に改められ、小喬と称される。「沈魚落雁閉月羞花」ほどの絶世の美女とされており、二人合わせて、江東の二喬[4]と呼ばれたことになっている。妻となった経緯は語られていない。孫策の死後、夫と一緒に孫権を補佐している。赤壁の戦いでは、曹操が二喬を奪おうとしていることを諸葛亮からほのめかされた周瑜が、これに激怒して開戦を決意したことにされている。夫の死後、諸葛亮の哀悼文では、似合いの夫婦を賛美する。
清時代の『百美新詠図伝』によると、中国歴朝で最も名高い美人百人に選ばれている[5]。
唐の杜牧の詩『赤壁』という詞では「東風不與周郎便、銅雀春深鎖二喬(当時周瑜は東風の助けがなかったら、二喬は銅雀台[6]に入っていた)」と詠まれ、二喬の名に触れている。また、北宋の詩人の蘇軾の『念奴嬌』(小題「赤壁懐古」)という詞では「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間、檣櫓灰飛煙滅(遙かに想ふ公瑾(周瑜の字)の当年、小喬初めて嫁した。周瑜の雄姿は凛凛として、羽扇綸巾。周瑜が談笑の間の短い時間で、敵艦隊を灰と煙にした)」と詠われている。
『庸庵筆記』では、聡明で優しい美女の一人として名が挙がる。
京劇『鳳凰二喬』では喬婉(きょうえん)という名で登場する。
