宮下太吉
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略歴
暗殺計画
山梨県甲府市若松町の出身で、実業補習学校を卒業後は東名阪などで機械工として勤務する。
1908年(明治41年)に愛知県知多郡亀崎町(現:愛知県半田市)の亀崎鉄工所で勤務していたところ、幸徳秋水が製作した平民新聞を読み、社会主義に感化された。太吉はそのまま平民社の関係者と接触するようになり、赤旗事件の後に内山愚童の「無政府共産」を読んで天皇崇拝を否定する考えを固め、1909年(明治42年)に長野県東筑摩郡中川手村(現:長野県安曇野市明科中川手)の官立「明科製材所」へ異動してすぐ、明治天皇を暗殺するためとして爆弾を試作し、爆破実験まで行ったという。
最期
1910年(明治43年)5月25日、太吉は爆発物取締罰則違反容疑で逮捕された(明科事件)。太吉は同じく天皇暗殺を企てたとして逮捕された管野スガ・新村忠雄・古河力作と共に官憲によってフレームアップされ、大逆罪で起訴された。多数が秋水を首領にした「幸徳事件(大逆事件)」の端緒とした。
1911年(明治44年)1月18日、太吉は秋水らと共に大逆罪で有罪となり、死刑判決を受けた(当時、大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められていなかった)。そして1月24日午後0時16分に市ヶ谷刑務所で処刑された。35歳没。宮下の執行から約2時間半後には新村、翌日にはスガも執行されている。墓所は山梨県甲府市相生三丁目の光澤寺にある。