宮城県電気局
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宮城県電気局(みやぎけんでんききょく)は、かつて存在した宮城県の組織のひとつ。公営電気事業を経営し、仙台市電気部とともに宮城県内の電気事業を独占していた[1]。
岩沼出張所
塩釜出張所
小牛田出張所
石巻出張所
一迫出張所
佐沼出張所
気仙沼出張所
小牛田出張所古川派出所
同鳴子派出所
石巻出張所飯野川派出所
(宮城県庁舎内)
| 宮城県電気局 | |
|---|---|
| 役職 | |
| 局長 | 歌田忠蔵(昭和17年時点) |
| 組織 | |
| 出張所 |
白石出張所 岩沼出張所 塩釜出張所 小牛田出張所 石巻出張所 一迫出張所 佐沼出張所 気仙沼出張所 |
| 派出所 |
岩沼出張所丸森派出所 小牛田出張所古川派出所 同鳴子派出所 石巻出張所飯野川派出所 |
| 概要 | |
| 所在地 |
宮城県仙台市勾当台通27番地 (宮城県庁舎内) |
| 年間予算 |
614万4,442円 (昭和17年度特別会計予算の内、電気事業費当初予算額) |
| 設置 | 1926年4月1日 |
| 改称 | 1930年4月1日 |
| 廃止 | 1942年3月31日 |
| 前身 | 内務部電気課 |
| 後身 |
日本発送電株式会社 東北配電株式会社 |
宮城県電気局は、地方財政の再建と電力普及を同時に達成することを目的として設立され、戦前期における全国でも先駆的な公営電気事業体の一つであった。
宮城県営電気事業のあらまし
県営電気事業計画の勃興
1919年(大正8年)4月18日に森正隆が宮城県知事に再任すると、当時約2,000万円に達していた県債の償還を自らの使命と位置づけ、その財源確保策として県営電気事業の創設を提唱した。[2][3] 当時、県内には仙台市電気部を含め、20の電気事業者が乱立しており、仙台市電気部以外は小規模水力を基盤とする脆弱な経営で、同一河川の水利権争いや供給区域の重複など非効率が顕著であった。森はこれらを県が一括して買収・統合し、電灯・電力の供給を普遍化・低廉化するとともに、得られる収益を県財政の改善に充てる構想を示した[3]。
県営電気事業創設の趣旨は、仙台市を除き県内多数の私営電気会社において経営する県内電気事業全部を買収して電気事業の統制を図り、電灯電力の供給を簡便にして普遍ならしめ、かつ料金を低廉にして均一ならしめ、もつてその需要の普及を計り、産業の発達と農漁村の進行を促がし、県民の福利増進を図ると共に、将来県財政緩和の一助たらしめんとする。—東北地方電気事業史 163頁より
当時、動力に限り県営電気事業を行っている例は高知県や富山県になどに見られたが、電灯・動力の完全県営化は全く例がないものであった[3]。
第一期統一事業(大正9〜12年)
1920年(大正9年)12月、県会は森の強引な主張と与党政友会の多数の強行審議により、僅か2時間で電気県営に関する議案を可決し、大正9、10両年度中で、仙台市電気部郡部事業及びその他電気事業者を一挙に買収する計画を立てた。しかし、当時の県予算総額3倍にも及ぶ1,500万円もの起債を伴う巨大事業でありながら、何ら具体性のない杜撰な計画案であったため、主務省(逓信省、内務省、大蔵省)の認可は難航し、事態が好転しないままに、森は貴族院勅撰議員に推薦されたことを受け、1921年(大正10年)5月に知事を辞任した[1][3]。
後任の力石雄一郎知事は計画を縮小し、山三カーバイド、仙台市電気部、大崎水電の3社を第一期統一対象として再申請した。1922年(大正11年)12月12日に主務省の認可を得て、後述の大崎水電別契約問題が発生するも、1923年(大正12年)4月1日に山三カーバイド、仙台市電気部、大崎水電の3事業を買収・統合し、県営電気事業が開業した[1][3]。
大崎水電別契約問題
開業直前の1923年(大正12年)3月、買収対象の一つであった「大崎水電株式会社」との間に、県議会に報告されていない裏の契約(別契約)が存在したことが発覚し、大きな政治問題となった[3]。
これは、県と大崎水電で交わされた、買収のための正規の仮契約以外に、大崎水電が保有していた関連会社の権利などを県が約17万円で買い取るという内容で、正規の手続きを経ていない不透明な支出であった。大崎水電側はこの履行を強硬に主張し、一時は契約破棄の危機に瀕したが、県が解決金(38万円)を支払うことで決着した。この混乱を経て、県営電気事業は波乱のスタートを切った[3]。
第二期統一事業(昭和2〜6年)
東北電灯の買収
第一期統一後も県内には複数の私設電気会社が残存し、料金体系の不統一が続いていた。県会は早期の全県統一を求め、1926年(大正15年)12月に着任していた牛塚虎太郎知事は、1927年(昭和2年)11月15日に東北電灯・仙北電気・気仙沼電気・仙南電気工業など主要事業者の買収に着手した[4]。
東北電灯は岩手、山形、秋田にも供給区域を持つ大規模会社であったため交渉は難航したが、全県会議員、内務部長、警察部長、官房主事、庶務課長、地方課長を委員とする電気事業統一委員会の組織や、県内経済界の斡旋、世論の後押しもあり、1928年(昭和3年)10月21日に仮契約が成立した。翌1929年(昭和4年)には仙北電気、気仙沼電気、仙南電気工業、県外会社の県内供給分(気仙水力電気、福島電灯、二本松電気)も同年8月までに買収している[4]。
なお、この間に、未灯火地区であった伊具郡筆甫村、宮城郡浦戸村、桃生郡宮戸村への点火がされたことで、宮城県内全町村への配電を達成しており、神奈川県、静岡県、愛知県、滋賀県、大阪府と並び、宮城県は全国でも早い段階で「全市町村点灯」を成し遂げた県となった[4]。
宮城送電興業の買収
東北電灯に並行し、県営電気への電力卸売りを専業としていた宮城送電興業の買収も進められたが、これは当時の国策と政争に翻弄され、難航を極めた[4]。
県は1928年(昭和3年)11月に同社との買収仮契約を結び、県会での承認を得ていたが、直後に成立した浜口内閣が金解禁に向けた緊縮財政政策をとったため、買収に必要な起債の認可が下りず、計画は棚上げとなっていた。1930年(昭和5年)末になり、ようやく申請額255万円の1割減額を条件に起債が認可されたが、この頃には金解禁後のデフレ不況により物価が下落していた。これを受け、野党政友会側は「不況下で旧価格での買収は不当であり、契約を破棄して再評価すべき」と主張し、臨時県会の招集を要求するなど激しい反対運動を展開した。1931年(昭和6年)3月9日に臨時県会が招集されると、12日には買収予算の執行中止を求める意見書が1票差で可決される事態となったが、20日に宮城送電興業側が買収価格の1割引き下げに応じたことで決着し、同月31日に事業引継ぎが完了した[4]。
その後、12月13日に柴田郡川崎村の本砂金電気利用組合が買収されたことで、幾多の曲折を経て宮城県内の電気事業(仙台市を除く)は、発送電含めて完全に県営へ一本化されることとなった[4]。
経営と県会での論争
県営電気は開業後急速に需要を伸ばし、昭和4年12月には電灯数25万3,940灯、動力1万678馬力、発電力1万4,622kWの規模に成長するとともに「県民の生活に照しても市営時代よりもよりよきものとの立証が与へられて居る」と河北新報に掲載されるなど、評価をされていた[4]。
一方で、事業拡大と共に経営をめぐって各種の問題が発生し、たびたび県会をにぎわせてもいた[4]。
一般会計への繰入金をめぐる対立
県営電気は特別会計で運営されていたが、創設の目的に「県財政の緩和」が掲げられていたことから、事業収益の一部は一般会計へ繰り入れられていた[4]。
繰入額は昭和2年度に3万5,000円、4年度に8万円、5年度以降は毎年18万5,000円に達し、県会では以下の三点が主要な論点となった[4]。
1 電気料金の引下げ要求
県営化後、県内の電気料金は統一されたが、多くの地域で電灯料は2割以上、電力料は7割以上の値上げとなり、塩釜地区や白石等の仙南地区などではほぼ倍増した。昭和2年通常県会では料金の引下げが強く要求されたが、県側は「電気料金を一般会計に繰り込むことは百万県民の福利増進であり、決して苛斂誅求ではない。」反論していた[4]。
しかしながら、河北新報が「民間の経営より不経済なことが明瞭ならば即刻民間に払下げるべし」と社説で論じた上、仙台市議会で市営電気の引下げが議決されたことなどにより、県は昭和3年に貧困者免除や1〜3割の引下げを実施したが、議論はその後も継続し、しばしば料金引下げが実施された[4]。
2 県債償還の優先を求める声
昭和4年度末の電気事業関係起債総額は歳入決算の約3.5倍である3,220万8,200円に達し、約2,530万円もの未償還額を抱えていた。一部の議員は、目先の利益を一般会計に繰入するのではなく、起債の償還を優先すべきだと主張し、県の財政運営を批判した。県側は「民間会社が同規模の事業を行った場合に徴収できる税収相当分を一般会計に補填している」と反論したが、河北新報社説では「一般条理の問題として不合理極まる」と批判された[4]。
3 仙台市民の負担公平性問題
県営電気は供給区域から仙台市を除かれていたため、県営電気の利益を県の一般財源に繰り入れることは、郡部住民が支払った電気代で、仙台市民も恩恵を受ける県の事業を賄うことを意味した。これは税の公平負担の原則に反するとして鋭く追及された。この解消策として、県会からは仙台市電気部の買収・統合を求める意見も出されたが、当時の県は市電気部買収には消極的であった[4]。
経営体質・技術面の問題
県営電気は経営・技術面において以下の問題を抱えていた[4]。
- 開業以来首脳部にほとんど変化がないこと。
- 官庁経営の煩雑さから敷設修繕の即決が難しかったこと。
- 県営電気は多数の中小事業者を買収して成立したため、設備の規格が統一されておらず、技術的な問題が多かったこと。
- 採算と公益の両立しがたい経営方針を持っていたこと。
1936年(昭和11年)12日には、通信省による県営電気に対する業務検査が実施され、以下の改善命令が発せられている[4]。
- 電気工作物の保守不良の改善のため、なるべく剰余金は一般会計への繰入ではなく事業改善に充てること。
- 会計経理の整理方を励行して計算の確実をはかること。
- 土木技術員を増員して水路工作物保守に遺憾なきを期すること。
- 発電所内の機械器具の改修を励行すること。
- 送電線路の保守を充分ならしむること。
- 電気盗用を防止すること。
- その他手続き上の問題等の改善。
電力国家管理への移行
国家統制への道程
昭和初期の金融恐慌以降、産業界の再編成が進む中で、電力業界においても国の強力な指導による統合が模索されていた。1936年(昭和11年)3月、広田内閣は「軍需工業発展のために豊富な電力を開発し、電気行政を事業者本位から需要者・消費者本位に転換する」として、発送電事業の国営化を骨子とする声明を発表した。これを受け、東北地方では10月、国策会社「東北振興電力株式会社」が設立された。その後、日華事変を経て戦時体制が強化されると、1938年(昭和13年)に電力管理法が成立し、翌1939年(昭和14年)4月に「日本発送電株式会社」が発足した[4]。
さらに第二次近衛内閣は、それまで民間経営に委ねられていた配電部門についても国家管理とする方針を固め、1941年(昭和16年)8月30日に、国家総動員法に基づく配電統制令を公布した。これにより、全国は9ブロックに分割され、宮城県電気局を含む13事業者に対し、9月6日付で「東北配電株式会社」の設立命令が発せられた[4]。
臨時県会での財産処分審議
1942年(昭和17年)1月12日、県は臨時県会を招集し、配電統制令に基づく電気事業財産の処分と株式引き受けについての承認を求めた。提案された処分内容は以下の通りであった[4]。
- 日本発送電への出資 - 刈田郡七ヶ宿村の横川・関・渡瀬の3発電所および仙北一号線などの5送電線路168km(帳簿価格約504万8,000円)を出資し、全額払込済株式を引き受ける。
- 東北配電への出資 - 上記以外の全施設(帳簿価格約3,330万9,000円、評価額約2,550万9,000円)を出資し、全額払込済普通株式・後配株式を引き受ける。
県当局は、これらの株式配当(年7分予定)により、約2,690万円の県債を1959年度(昭和34年)までに完済し、さらに年々200万円程度の一般財源収入が見込めると説明した[4]。
この提案に対し、県会からは将来の財政計画や資産処分の是非について質疑が行われ、県営電気事業が掲げてきた「未点灯部落の解消」という根本方針が、国策会社への移管によって失われることが危惧された。本会議では「8,000戸の未点燈戸数」のために、県電として最後の努力を払うよう当局への強い要請がなされ、最終的に、これらの意見を付した上で原案は全会一致で可決確定された[4]。
事業の終焉と電力復元運動
1942年(昭和17年)4月1日、宮城県営電気事業は東北配電および日本発送灯電への事業引き継ぎを完了し、19年の歴史に幕を下ろした。引継時の事業規模は、電灯数39万5,798灯、動力1万6,728kWに達しており、経営期間中の一般会計繰入総額は273万4,984円に上った[4]。
なお、終戦後の1946年(昭和21年)には、配電統制令の失効に伴い、電気事業を再び県営に戻そうとする「公営電気復元運動」が起こった。宮城県会でも同年8月、「電気事業の公益性を発揮するため、電気事業を県営化すべき」との意見書を提出したが、実現には至らなかった[4]。