父が農林学校長として盛岡市に在住していたときに生まれる。このとき住んでいた家の隣には原敬の生家があった。
3歳の時に父が甲府の農学校長及び農事試験場長となったため一緒に移り住み7歳までそこで過ごす。その後、父が関西の肥料王である多木久米次郎に招聘され多木製肥所の技師長となったのに伴い、兵庫県別府に移住した。その後、父が多木製肥所を辞職し、深川で肥料問屋の経営者となったため上京し、初等教育を東京府青山師範学校附属小学校で終えた。
その後、東京府立第三高等女学校に入学した。両親から将来医師になるための教育を受け、放課後に英語の個人授業に隔日通い、2年生からはドイツ語も週2日の授業を受け、漢学者である名取弘三から漢学を学んだ。卒業後は東京女子医学専門学校に入学し、1921年に首席で卒業した。
父が当時東京帝国大学の総長であった古在由直に庚子の一身について図り、山上御殿の教授会において当時の医学部耳鼻咽喉科教授の岡田和一郎が引き受けることを申し出た。これにより、耳鼻咽喉科初の女性助手を務めることになった。その後、岡田和一郎が名誉教授として引退後は後任の増田胤次につき研究を行った。1925年からは解剖学教室で主任教授の井上通夫の助手となった。このとき必要とする高等数学のために理学部長であった中村清二の世話にもなっている。
解剖学教室においては内耳、特に三半規管を研究し、1929年秋に博士論文として「邦人聴器の形態学的研究」を提出することを勧められ、翌年1930年11月に論文が教授会を通過し、日本で最初に女性医学博士となることになった。
1935年に医学博士の宮川彪と結婚した。媒酌人は竹内松次郎が務めた。
1970年時点で開業している[8]。