越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)の加賀藩山廻役宮永正好の5男、東作の子として生まれる。農学者宮永十左衛門正運の曾孫にあたる。
父の東作は医業を志して金沢で学んだ後、福光村の医家有沢東海の養子となり、福光橋北詰で医業を嗣いでいたが、良蔵が14歳のときに死去。当時、父方の宮永家は家運が衰退していたため、母八重子の生家である福光村肝煎役石崎喜兵衛方に母子ともに引き取られ、養育された。
嘉永3年(1850年)18歳のときに医学を志し、長崎で蘭学を学び、京都では名医角山の門下生となった。当時、最先端の種痘についても研究し、大阪適塾の蘭学者緒方洪庵とも交友があった。京都智恵光院上立売下ルで医者を開業し、母方の叔母が仕えていた縁で、主治医として出入りした勤王派公卿・徳大寺公純の影響で尊王攘夷に傾倒。また、叔母の夫である勤王の僧玉暎とともに王事に奔走した。元治元年7月(1864年)の禁門の変では、密かに長州藩のために周旋した。
慶応3年(1867年)、その行動を偵知した新選組が良蔵を捕縛。連日同志の所在を糾問され、厳しい拷問を受けるも良蔵は一切自供せず、やがて放免されたが、拷問の傷が癒えることなく、王政復古後の同年12月22日に没した。享年35。墓所は京都市東山区・霊山墓地に所在。
1907年(明治40年)5月、明治維新前後に国事に尽力した功績により、贈位として贈従五位を追陞された[2][3]。1918年(大正7年)11月、後世に宮永良蔵の偉業を伝えるために、下川崎村に記念碑が建立された。その碑文には「贈従五位宮永良蔵先生碑 正二位勲三等子爵三室戸和光書」とある。良蔵の辞世「大君に事へそまつるその日よりわが身あるとは思はさりけ利」