宮田慶三郎
日本の実業家 (1906-1997)
From Wikipedia, the free encyclopedia
略歴
特記なきものは著書『一瞬と永遠――建学の精神の基礎にあるもの』[3]著者略歴より。
北海道の湧別町川西に早期開拓民として高知県から入植した宮田亀之助の3男として1906年1月7日に生まれる[4]。旧制中学に進んだ後、上京して逓信省の逓信官吏練習所で無線や電気材料学を学ぶかたわら[5]、大阪歯科医学専門学校に通い、1931年3月に卒業し、同年12月に宮田歯科医院を開業する。宮田金属研究所を設立し、入れ歯用特殊合金を研究開発する株式会社徳力本店を始める[5]。1931年に満州事変が勃発し、宮田が開発した歯科用合金「ミヤタシルバーロイ」が軍用探知機開発の材料として軍需品指定される[5]。
第二次大戦となり、1939年2月に不二越鋼材工業株式会社付属研究所の研究員となり、1940年3月に同社東京工場長に就任。敗戦後これを買収して東洋工機株式会社とし、社長となる[5]。1947年9月、元工員の告発により、同社が隠退蔵物資事件の容疑で摘発起訴されるも、のちに無罪となる[5]。その後、日本大学の研究生となり、歯学と大脳生理学を学ぶ(1960年6月に慶應義塾大学より医学博士号取得)[5]。
1951年3月に日本放射線防御株式会社会長に就く。1958年に米国でコーポラティブハウスを見学したのをきっかけに、1959年に不動産会社の東京コープ販売を設立、高級分譲アパートととして、渋谷コープ、新宿御苑にエンパイアコープ、原宿にコープオリンピアを建築販売のほか、同所にて本格中華の南国酒家を自ら経営し、1966年には中野ブロードウェイを完成させた[5]。
1970年5月に城西歯科大学、1971年2月に岐阜歯科大学、それぞれを創立する。1974年4月に学校法人大阪歯科大学理事、1979年4月に社団法人日本私立歯科大学協会監事、それぞれに就く。
著書
- 『アパートのすべて』金剛出版、1964年
- 『サラリーマン革命』金剛出版、1966年