富士山興法寺
富士山の村山修験における中心地
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起源
中世史
興法寺は室町時代までは伊豆走湯山末寺であった[2]。しかし次第にその影響から離れ、戦国時代には関係性は見られなくなっている。興法寺の人員は「衆徒」と「山伏」で構成され、衆徒が上位身分であった[5][6]。村山三坊はこのうち衆徒で構成され興法寺の中核を担い、山伏には興法寺内に坊を構える者も居た[7]。
興法寺には「寺務代」という役職が存在した。例えば天文2年(1533年)の今川氏輝判物には「富士山興法寺々務代辻坊」とあり[原 2]、このとき辻之坊が寺務代であったことが知られる。また今川氏真判物より、永禄9年(1566年)には辻之坊と池西坊が寺務代を兼任していたことが知られる[原 3][8]。
聖護院門跡との関係

興法寺は聖護院門跡を本山とする修験道本山派に属し、その末寺(御直末院)の寺格を有していた。興法寺が本山派に属した時期や御直末院となった時期については、諸説がある。
本山派に属した時期は今川氏当主が今川氏輝であった時代まで遡る潜在性を持つという指摘や[9]、近世の「山野争論」以後とする指摘がある[10]。
また御直末院となった時期は、天和相論を契機とするとされている。つまり、17世紀後半のことであるとされる[11][10]。
村山三坊は天和3年(1683年)を決定的な契機として、聖護院門跡との間で相論を起こしている(天和相論)。発端は遡ること数年前に村山が聖護院との関係を否定し、無本寺であると称したことであった。それを見た聖護院は公儀に訴え出て、結果として寺社奉行から村山三坊に対し以下の文言を含む覚書が突きつけられた。
近年大鏡坊・池西坊・辻之坊才覚を構称無本寺、旧例之方式を失脚、剰聖護院御門跡より被下置証文を隠置、私ニ三ヶ坊称本寺段不届之至也、依天命ニ出入有之二ヶ坊御追放被為仰付訖、辻之坊有子細而被指置候処… — 天和3年(1683年)「寺社奉行覚」
このように村山が無本寺を称したことを非難されている。また山野争論でも大鏡坊・池西坊は追放、辻之坊は閉門となっていることも指摘された[12]。そして同年12月14日に寺社奉行から聖護院に宛てられた「寺社奉行連署書状」に「前々御門主為御支配之間」とあるように、改めて村山が聖護院支配下であることが確認されている[13]。
この明和相論を、単なる聖護院と村山の対立構造として見るのではなく、山野争論により権威を失った村山側が再起を図った行動の結果と肯定的に評価する意見もある[14]。