寺師見國
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現在の鹿児島県南九州市にあたる旧川辺郡知覧町に生まれる[2]。九州帝国大学医学部を卒業して医師となり、1916年(大正6年)に鹿児島に戻って北伊佐郡大口村(現在の伊佐市)にて「寺師医院」を開業する[1][2]。
そのかたわら、郷土の遺跡や遺物など、考古学の分野にも関心を示し、1930年(昭和5年)に旧制大口中学校に赴任してきた早稲田大学出身の教師・木村幹夫(きむら みきお)に出会って以降[注釈 1]、共に県内遺跡の発掘調査を行うようになった[1]。
鹿児島県内の縄文土器の編年研究を行い、「手向山式土器」と「塞ノ神式土器」を設定した。また、古墳時代の研究では、伊佐市域など鹿児島県北西部(北薩地域)に分布し、現在は板石積石棺墓と呼ばれている地下式の墓制について研究し、初めて「地下式板石積石室墓」という名称を与えた。また、大隅地域に分布する地下式横穴墓なども研究し、鹿児島県域の考古学研究に業績を残した[1]。
1959年(昭和34年)10月15日に死去。