寺平忠輔
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1901年(明治34年)、静岡県出身[2]。静岡県立静岡中学校を経て[3]、1923年(大正12年)、陸軍士官学校(35期)卒業後、陸軍委託学生として1928年(昭和3年)、東京外国語学校に入学、3年間支那語を修めた[2]。1931年(昭和6年)、陸軍省勤務[2]。1932年(昭和7年)、支那駐屯軍司令部付、1936年(昭和11年)[注釈 2][注釈 3]、北平特務機関補佐官となり[2][注釈 4]1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件に際会、事件の不拡大と北京を戦火から守るために尽力した[2]。1939年(昭和14年)、支那派遣軍総司令部付[2]、1941年(昭和16年)、第11軍司令部付(漢口)として対支長期持久戦で建設諸工作を推進[2]。1944年(昭和19年)、岡村寧次大将のもとに柳桂作戦を実施、ついで岡部直三郎大将のもとに穀倉湖南の治安維持にあたり、1945年(昭和20年)敗戦を迎えた[2]。復員後は『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』の執筆推敲に心血を注ぎ、完成間もない1968年(昭和43年)早春、病死[2]。