寺田彦太郎
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遠江国山名郡福田村[2][3][4](静岡県山名郡福島村、磐田郡福田町を経て現磐田市福田)の庄屋寺田彦左衛門良賢の子として生まれる[5]。
1836年(天保7年)、藩侯西尾隠岐守より庄屋を命ぜられる[4]。1842年(天保13年)大庄屋となり[2]、同じ西尾藩の庄屋八木美樹と交わり、その父美穂より国学思想を受け継ぎ、のち『国教のもとゐ』[注 1]などを著した[5]。
さらに国学思想に則り村政に励み、福田港口掘削、河川改修、海岸砂防堤築造、荒蕪地開拓に尽くす[5]。ほか、福田地方の製塩業や養鰻業の基礎を築いた[5]。
1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では静岡県第5区から出馬し当選[1]。つづく第5回、第6回総選挙でも当選し、衆議院議員を3期務めた[1]。
著作
- 『神宝解』1897年。
