中島行孝
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上野国佐位郡、のちの群馬県[3]佐波郡赤堀村[4][5](赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛[注釈 2]の長男として生まれ[5]、その後、中島家の養子となる[5]。
1869年(明治2年)大蔵省に入省し[5]、大蔵省一等属となる[3][4]。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた[5]。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた[2][3][4][5]。
政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任[3][4][5]。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(東京府東京市、立憲国民党)で当選し[5][6]、中正会に所属して衆議院議員に1期在任[3][4]。任期途中の1914年5月に死去した[7]。墓所は牛込区の宝祥寺。
郷里に思いを寄せ、農産同心儀社を設立して、農業経営の向上のため、肥料資金、農機具を寄贈した[5]。
