小出満二

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小出満二

小出 満二(こいで まんじ[1]1879年8月13日 - 1955年5月29日)は、農政学者。

兵庫県養父郡伊佐村で、9代続く医家の6人兄弟の次男として生まれる[2]。学制尋常4年を卒業後上京し、13歳で郁文館中学校に進学[2]。同期生に石原純橋元昌矣(石原の妻の兄)、三宅恒方物集高量浮田修身らがいた[3]

第一高等学校に首席で合格したが、一学年期に落第して人生に悩み、読書を通じて内村鑑三キリスト教に出会い、隣に住んでいたクリスチャンの村田勤(1866 〜1921、牧師・教育者[4])と親交した[2]。村田は同志社出身で、イエール大学で教会史学者のウィリストン・ウォーカー(en:Williston Walker)に学び、日本女子大学明治中学校で教鞭をとった人物[5]

1906年東京帝国大学農科大学卒、同助手。『中央農事報』に連載した「但馬國に於ける牛産に就いて」を内村鑑三が新渡戸稲造に紹介したのがきっかけで、新渡戸の『農業本論』改訂版(1908年)の増訂を手伝った[2]

1910年鹿児島高等農林学校要員としてドイツ、英国へ留学。留学中は農業経済や植民政策のほか、デンマークの農業教育や子女教育を研究した[2]。13年米国をへて帰国、14年鹿児島高等農林学校教授、1918-20年シドニー大学交換教授。同大の日本語講座の創設に協力した[2]

1921年文部省督学官、1928年九州帝国大学農学部教授、1936年鹿児島高等農林学校校長を兼ねる。1938年東京高等農林学校(現東京農工大学)校長。45年定年退官、東京高等農林学校名誉教授。同年、茨城県内原町鯉淵にあった農業指導者育成施設全国農業会高等農事講習所所長に就任。

1945年正三位、没後勲二等旭日重光章受勲。内村鑑三、新渡戸稲造に師事。吉村証子は六女。[6] 財団法人農民教育協会が教育事業を引き継ぎ誕生した鯉淵学園初代学園長(鯉淵学園農業栄養専門学校)に就任。

1954年に体調を崩し、1955年に胃がんにより死去。墓所は多磨霊園。

小北文庫

兼松シドニー支店長などを務めた在豪の実業家・北村寅之助の援助で、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島、東南アジア研究の学術文献を収集し、小出・北村から1字ずつ取った「小北文庫」として目録が鹿児島大学附属図書館に保存されている[2][7]

家族

著書

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