小出英美は、江戸時代後期の旗本で、知行高は2000石を領した。家紋は八重梅鉢で、屋敷地は桜田門付近に所在した。10代当主として文政10年に小出英徳から家督を継いだ。家は倉見小出家の系統に属する。倉見小出家は、出石藩主として5万石を領した小出吉英の四男・英本が分家した家系で、現在の豊岡市倉見などを知行所として幕末まで続いた。
天保8年(1837年)2月15日に使番となり、小出織部を称した。天保13年3月11日(1842年4月21日)には使番と火事場見廻を兼帯し、同年12月9日(1843年1月9日)にも使番として任にあたった。さらに天保14年(1843年)には西丸目付となり、同15年(1844年)には海防掛を兼帯して目付を務めた。
海防掛としては弘化年間、阿部正弘の提唱した異国船打払令復活案に反対したとされる。弘化2年(1845年)には目付として朝鮮通信使来聘御用に関わり、弘化4年7月17日(1847年8月27日)には山田奉行に任じられ、時服4羽織の下賜を受けた記録が残る。
嘉永元年5月24日(1848年6月24日)、山田奉行在任中に死去。中山寺(伊勢市勢田町)に葬られた。