桜田門
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慶長7年(1602年)頃の江戸を描いたとされる『別本慶長江戸図』には「小田原口門」、また慶長13年(1608年)頃の江戸を描いた『慶長江戸図』には「櫻田土橋」と記載されている。もともとは柵戸仕立の門だった。
門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)に真壁藩(現・茨城県)の浅野長重によって築かれ、1620年(元和6年)仙台藩伊達政宗らにより門の石垣が構築された[6]。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多かった[6]。
1636年(寛永13年)に、現在のような桝形門に改築、外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)を直角に配した二重構造で構成される外桝形(そとますがた)という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさ(320坪)の桝形を構成している[7]。桜田門の枡形は約27×38メートルで、現存する江戸城の枡形門の中で最も広いとされている。櫓門の上部には、長さ約35メートルの渡り櫓があり、高い位置から周囲(特に外桜田門の枡形内部や外濠方面)を見渡し、敵の接近や不審な動きを監視する物見台として機能。平時には、武器庫や資材を収蔵する倉庫としても利用され、戦いの際には、枡形に入った敵に対してこの櫓の中から鉄砲や弓矢で攻撃するため、狭間と呼ばれる覗き穴や銃眼が設けられており、つまり仮に高麗門を敵に突破されても、敵が枡形に入ったら敵から見て右上方から効果的に攻撃し殲滅できるよう設計されている。
安政7年(1860年)3月3日にこの門の近くで水戸藩浪士ら18名による登城中の大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた[8]。井伊邸は桜田門から西に500メートルほどの所、現在の憲政記念館の建っている辺りにあった[9]。
大正12年(1923年)の関東大震災で渡櫓門の櫓が破損したため、鉄鋼土蔵造りに改修される[1]。
昭和7年(1932年)1月8日には朝鮮人土木労働者李奉昌による昭和天皇暗殺未遂事件があった(桜田門事件)。桜田門から皇居へ入ろうとした昭和天皇の行列を警視庁前で待ち受けていた李奉昌が、行列に手榴弾を投げつけ、宮内大臣の馬車にあたるも、怪我人はなく、その後ろの天皇の馬車も無事だった。逮捕された李は大逆罪により死刑となった。当時の犬養内閣は責任をとるとして総辞職を表明したものの、天皇の慰留で全閣僚留任した[10]。


