小宮珠子
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東京・深川の東川小学校(現・江東区立東川小学校)に務める[2]。
神田基督教会で洗礼を受け、チャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)を慕い、教会の日曜礼拝に欠かさず通う祈りの人だった[1]。
1880年(明治13年)1月、東京・築地の立教女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)舎監(寄宿舎監督)兼教員となる[1][2]。当時の女学校の校長はフローレンス・ピットマンが務めており、珠子は担当科目として裁縫に加え、日本外史や国史略などの日本史を教えた[2][3]。
1884年(明治17年)、フローレンスの夫・ジェームズ・ガーディナー(立教学校初代校長・建築家)の設計で築地居留地内26番に立教女学校の新校舎が竣工。校則教則も整えられ、ミス・サラ・リデック (Sarah L. Riddick) が校長となると、珠子は引き続き裁縫と日本史を教えた。英学科は主にリデックが教えたほか、エマ・フルベッキとエマ・ウィリアムソン (Emma Williamson) も教え、和漢学科は鈴木という教師が教えた[2]。
1886年(明治19年)には、小宮とともに女性伝道活動で活躍する林歌子が立教女学校で和漢学や算術を教えはじめる。
1890年(明治23年)、珠子が推薦した石井亮一が立教女学校の教諭となり、まもなく亮一は教頭に就任する。珠子は幹事として教頭の亮一とともに欧米風ではない日本的な教育に向けて学校改革を進めていく[1]。
1892年(明治25年)にはウイリアムズ主教が主導した孤児救済事業である「東京救育院」を亮一とともに設立・運営したほか、「孤女学院」(滝乃川学園の前身)に向けた義捐活動の呼びかけにも名を連ねるなど、亮一と活動を共にした[1]。
珠子は、30年以上に渡って、立教女学校の教員を務めたほか、舎監として寄宿舎に生徒とともに寝起きして女子教育に献身し生徒を育てあげ[1][2]、「立教の母」と呼ばれた[3]。
また、当時の米国の女性教員の月給は20円であったが、珠子の月給は3円で、そのうち2円50銭は食費で差し引かれ手取りは50銭であったという。その残りの50銭で貧民などへの伝道活動を行うなど奉仕活動に身を捧げた[2]。
そのほか、日本聖公会での活動としては、1892年(明治25年)11月、珠子らによって祈りと献金で伝道を支援する「メリーの友の会」が創設。1897年(明治30年)には、ジョン・マキム主教夫人やミス・ラベル宣教師らの支援で、日本聖公会の北東京や京都地方部に「婦人補助会」ができ始め、1908年(明治41年)4月に、日本聖公会の外郭団体の一つとして「日本聖公会婦人補助会中央本部」となった。教育の自由が認めれなかった当時、小宮珠子のほか、林歌子、須貝千代・山口敏子らが、外国人女性宣教師らとともに活動の輪を拡げ、1926年(大正15年)には、名称を「日本聖公会婦人伝道補助会」として、台湾・満州に婦人伝道師の派遣も行い、伝道事業を支援した[4]。
珠子は晩年、知人の住所録を見ながら一人ひとりのために祈ったという[1]。
立教大学との関わり
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 山崎 晃史「石井亮一にとってのキリスト教信仰 -- 入信経緯と信仰生活およびそれらを支えたキリスト者コミュニティ」『清泉女学院大学人間学部研究紀要』第20号、清泉女学院大学人間学部、2023年3月、27-46頁、ISSN 2189-3632。
- 1 2 3 4 5 6 7 『話と世評で綴る女子教育史(42)―立教女学校・雛から成鳥への過程―』 月刊ニューズレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて,神辺靖光 ,5頁-8頁,第42号,2018年6月15日 (PDF)
- 1 2 3 『立教女学院 草創期の人たちの物語』立教女学院資料室委員会編,学校法人立教女学院,2007年11月
- ↑ 『日本聖公会婦人会の始まり』 日本聖公会婦人会
- ↑ 『立教大学新聞 第31号』 1926年(大正15年)4月25日,印字は第36号と誤植
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