小寺元賢 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 不詳別名 通称:又三郎→左衛門尉 凡例小寺 元賢時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 不詳別名 通称:又三郎→左衛門尉主君 毛利輝元氏族 小寺氏父母 父:小寺元武兄弟 就武、元賢子 元茂テンプレートを表示 小寺 元賢(こでら もとかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は小寺元武。兄に小寺就武。 毛利氏家臣・小寺元武の次男として生まれる[1]。 天正8年(1580年)、毛利輝元の備中出陣に兄の就武が従軍したが、宇喜多方の備前国人である伊賀久隆の虎倉城攻撃の途上の同年4月14日に下加茂において伊賀久隆の強襲を受け、毛利軍は先鋒部隊の将であった粟屋元信を始めとして児玉元房、井上元勝、奈古屋元賀(奈古屋清賀)、三戸元好、宇多田藤右衛門、山県三郎兵衛、足立十郎右衛門、斉藤左衛門尉ら40人余りが討ち取られる大敗を喫した(加茂崩れ)[2]。この時の撤退戦において就武は敵方に引き返して戦い、戦死した[2][3]。就武の戦死に伴い、元賢が小寺元武の後継となった。 天正9年(1581年)11月28日、毛利輝元から「左衛門尉」の官途名を与えられ[4]、同年11月30日には輝元から、元賢の伯耆国における数年間の尽力について忘却しないので、元武の後継として相違なく申し付けるように吉川元春に伝える旨の書状を送られる[5]。 同年12月10日、吉川元春が元賢に宛てて、元賢が伯耆国の馬野山に在番することについて納得したことに満足しており、来春早々の出陣に際しては何でも相談するように伝える書状を送っている[6]。 慶長3年(1598年)から慶長5年(1600年)頃に作成されたとみられる毛利氏の分限帳(広島御時代分限帳)には元賢に458石が与えられていることが記されている[7]ため、この時点で父の元武が隠居して元賢が家督を相続していたとされる。 没年は不明。子の小寺元茂が後を継いだ[3]。 脚注 注釈 出典 ↑ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第51号、年不詳11月8日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(吉川)元春書状。 1 2 毛利輝元卿伝 1982, p. 167. 1 2 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」家譜。 ↑ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第58号、天正9年(1581年)11月28日付け、小寺又三郎(元賢)殿宛て、(毛利)輝元官途状。 ↑ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第55号、天正9年(1581年)比定11月30日付け、小寺左衛門尉(元賢)殿宛て、(毛利)輝元書状。 ↑ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第56号、天正9年(1581年)比定12月10日付け、小寺又三郎(元賢)殿宛て、(吉川)元春書状。 ↑ 『広島御時代分限帳』。 参考文献 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。 国立国会図書館デジタルコレクション 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」 Related Articles