小山城 (遠江国)
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築年は不明[2]。今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされる[3]。今川義元が桶狭間の戦いに敗戦して以降、武田信玄と徳川家康は、大井川を境界として駿河を信玄、遠江を家康が領有することを約束していた[4]。しかし1568年(永禄11年)12月、信玄がその約束を破って侵攻し[注釈 1]、今川氏真を討って山崎の砦を攻略する。対して家康は松平真乗に城砦周辺の領地を与え、1570年(元亀元年)4月に城砦を落とすことに成功する[4]。
1571年(元亀2年)2月、甲州から2万5,000人の兵を率いて攻め入った信玄はこれを真乗から奪取して「小山城」と名付け、大熊朝秀(長秀)を城主におき遠州攻略の拠点とした[4]。それまで小規模の城砦にすぎなかったものが、武田方の改築によって本格的な築城がなされたとされている[2]。
小山城築城は大井川西方の防衛ラインを形成し、武田方にとって高天神城攻略の為の拠点となった。これにより信玄は三河にて足助、田代、二連木を取ったとされる[6]。
信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道の金谷原に諏訪原城を築城し、高天神城攻めの足掛かりとした[6]。しかし、勝頼は長篠の戦いに敗退、諏訪原城も落城し、残兵が逃げ帰った先が小山城であった[6]。勢いに乗った徳川軍は小山城を攻撃したが、城番の岡部元信らの防戦により落城は免れた。小山城は堅牢であったため、滝堺城を通じて武田方の最前線である高天神城への補給路の要となっていた。これに対し徳川軍は、城の南方にある吉田田んぼの青田刈りを行い食糧攻めを行った[6]。1581年(天正9年)3月に高天神城が落城し、翌1582年(天正10年)2月に織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始されると、戦況をみた兵たちは城を捨て小山城は自落した[6]。

