小山政長
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明応7年(1498年)、小山成長の子として生まれる[2]。第2代古河公方・足利政氏より偏諱を賜い、政長と名乗る。
永正7年(1510年)、足利政氏・高基父子が対立し、関東諸侯も二派に分かれて抗争した。小山氏も、父・成長が小山祇園城に政氏を迎えるなど政氏派の主力となって活動した。永正11年(1514年)には佐竹義舜・岩城由隆らと共に宇都宮忠綱を攻撃したが、宇都宮成綱、結城政朝らに敗れ、政氏方は次第に劣勢になる。
永正13年(1516年)、小山氏が政氏方から高基方に転じた[3]。政氏は祇園城を追われ、隠居を余儀なくされる[4]。この背景には、政長と父・成長の間に意見の対立があり、政長の主張から高基方に転じたと推測される[3]。この頃から政長が小山氏の実権を握り、成長は出家する[3]。
小山家内部にあっては、父・成長の湯治の便宜をはかったり、自身と妻子、被官の大厄を払うため、伊勢神宮に願文を捧げるなどの活動がみられる[5]。
享禄元年(1528年)9月には、自身の連歌付句の批評を、清原宣賢を介して京都の公家・三条西実隆に依頼した[5]。また、常陸国真壁城城主・真壁氏宛てに、京都での連歌の会などについて書き送っている[6]。
政長は、永正半ばから享禄頃(1510年〜1531年代)にかけて活動し、30歳前半くらいで死去したとみられる[5]。法名は、大雄存悦(「小山系図」)[7]。