小崎利準
幕末の伊勢亀山藩士、明治期の内務官僚。官選岐阜県知事、錦鶏間祗候。子に英子(三女、菅川清(横浜の貿易商菅川商会社長)の妻)
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経歴
伊勢国鈴鹿郡亀山江ヶ室(現三重県亀山市)[5]で、亀山藩士の家に生まれ、藩校で学問を修めた[6]。
慶応4年7月2日(1868年8月19日)笠松県判事に就任。明治2年9月25日(1869年10月29日)同少参事、明治3年4月5日(1870年5月5日)同大参事を経て、明治4年11月22日(1872年1月2日)笠松県が廃止され岐阜県権参事に就任[2][6]。1873年12月28日、村田氏寿権令の転任に伴い参事に昇進し岐阜県庁の責任者となる[7]。1875年7月19日、権令、1878年7月25日、県令に昇進[7]。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い岐阜県知事となる[7]。
1879年、県会が開設されると、飛騨選出議員の山岳派と美濃選出議員の水場派の対立が激しくなった[6]。山岳派は道路・橋梁費の増額を主張し、水場派は治水・堤防費の増額を主張した[6]。1880年、地方税規則改正により堤防費が官費から地方税の支出に変更され、飛騨の地方税が美濃の治水費に支出されることに対して山岳派の不満が高まった[2][6]。小崎は、飛騨側の請願総代の関係方面への陳情に便宜を図り[6]、治水費と道路・橋梁費の均衡を保つなどの政策を行った[2][6]。
