東京府東京市大森区(現・東京都大田区)に生まれる。間もなく母の実家のある岐阜県武儀郡関町(現・関市)に移る。少年期より図画工作を好み、小学校高学年で水彩画コンクールに入賞。中学時代に油絵を学び、祖父所蔵のカメラで写真撮影も始める。[要出典]
1954年、岐阜大学学芸学部美術工芸学科(現・教育学部美術教育講座)に入学し坂井範一に師事。近代絵画やマティスの色彩論を学ぶ。在学中から日本美術展などに入選。[要出典]
1958年に岐阜大学を卒業して東京教育大学大学院に進み、1962年に構成デザイン研究生課程を修了した[要出典]。この間、1959年にグループVAVAの結成に参加した[1]。
1960年代より絵画・版画・写真を中心に活動し、リオデジャネイロ国立美術館やサンパウロ日本文化センターなどで展覧会を開催した。1965年、日本国際アーティスト協会の結成に参加し、カナダ・アメリカへの親善使節団として渡航した。この時期、東京・名古屋・京都などで個展やグループ展を精力的に開催した。[要出典]
1970年、ニューヨーク滞在中にシルクスクリーン技法を学び、版画作品を制作した。ベトナム反戦ポスターなど社会性を持つ作品も発表する。1971年から1974年まで岐阜教育大学(現・岐阜聖徳学園大学)助教授を務め、並行して講談社フェーマス・スクールズのインストラクターも担当した(1996年まで)。1970年代には代々木公園や東京アースデー会場などで環境アートイベントを企画・参加する。[要出典]
1980年代から1990年代にかけてはチェコ(プラハ)、ポーランド、スペイン、フランス(パリ)などに作品を出展した。1994年から女子美術大学で教育活動に携わる。1996年に京都へ移住した。[要出典]
2003年、美濃加茂市民ミュージアム「坂井範一とゆかりの作家展」に出品。2004年には同ミュージアムで「小本章展」を開催。「自然の色をさがそう」と題したワークショップも主催した。[要出典]
2017年(平成29年)に死去した[1]。