小柳胖
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新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた[1][2][注 1]。
そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った[1][6][7][8][9][10][11]。
包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた[12][注 2][注 3]。
反戦の日本人捕虜たちとオーテス・ケーリの対日宣伝活動に協力すると、愛国の日本人捕虜たちから、「親米派」や「売国奴」などと罵声を浴びせ掛けられてデモも行われたため、真珠湾のほとりに設置されたパールシティ収容所に移った[17]。
そこでまとめ役となり、同じく捕虜の朝日新聞社記者の横田正平、同盟通信社記者の高橋義樹、元戦艦大和暗号士の小島清文たちと、日本本土空襲や沖縄戦などの事実を伝える新聞形式のビラ『マリヤナ時報』を作成した[1][2][7][18][19][注 4]。
『マリヤナ時報』はアメリカ陸軍航空軍の大型戦略爆撃機B-29 スーパーフォートレスから戦場や日本全国にまかれた[1][注 5]。
1945年(昭和20年)8月14日朝、昭和天皇は木戸幸一内大臣から『マリヤナ時報』号外No. 2117について進言を受けると、鈴木貫太郎内閣総理大臣に会議(御前会議)を開くよう命じ、ポツダム宣言受諾を決断(聖断)した[22][23][24][25]。
太平洋戦争後、新潟日報社に復帰すると、母校の新潟中学校(現 新潟高等学校)の先輩の会津八一と交流し、会津八一の死後、新潟日報社代表取締役社長となると、會津八一記念館の設立運動の中心となって初代館長となった[2][26][27][28]。
1986年(昭和61年)1月4日午後1時45分に新潟大学医学部附属病院で脳梗塞のため死去した[29]。
ほかの元捕虜たちとともにオーテス・ケーリと交流を長く続けたが、捕虜収容所での体験を公表することは死ぬまでなかった[1][注 6]。
年譜
- 1928年(昭和3年)3月 - 新潟中学校卒業
- 1930年(昭和5年)3月 - 第二早稲田高等学院修了
- 1933年(昭和8年)3月 - 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業
- 1933年(昭和8年)4月 - 日本電報通信社入社・通信部配属
- 1936年(昭和11年)6月 - 同盟通信社入社・政治部配属
- 1938年(昭和13年)1月 - 新潟毎日新聞社副社長
- 1941年(昭和16年)8月 - 新潟日日新聞社常務取締役・編集局長・工務局長
- 1942年(昭和17年)11月 - 新潟日報社取締役・編集局長・工務局長
- 1944年(昭和19年)2月 - 太平洋戦争応召
- 1945年(昭和20年)9月 - 新潟日報社取締役解任
- 1946年(昭和21年)10月 - 復員
- 1946年(昭和21年)11月 - 新潟日報社取締役
- 1947年(昭和22年)1月 - 新潟日報社取締役・編集局長
- 1947年(昭和22年)11月 - 公職追放
- 1950年(昭和25年)11月 - 新潟日報社取締役
- 1953年(昭和28年)6月 - 新潟日報社取締役・編集局長
- 1957年(昭和32年)1月 - 新潟日報社取締役
- 1961年(昭和36年)6月 - 新潟日報社常務取締役
- 1967年(昭和42年)12月 - 新潟日報社代表取締役社長
- 1984年(昭和59年)1月 - 新潟日報社相談役