小沢不二夫
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1935年(昭和10年)、大都映画巣鴨撮影所に入社、同年9月19日に公開された、大伴竜三(麟三)監督、松山宗三郎主演の映画『浪人双六』のオリジナル脚本を書き、23歳で職業脚本家としてデビューする。1942年(昭和17年)の大都映画の合併による消滅まで、同社の生産ラインで脚本を量産する。その後、阿木翁助らのいる「ムーランルージュ新宿座」文芸部に参加。
戦後は小説家に転向、多くの小説が東映京都撮影所で映画化される。1946年(昭和21年)堺駿二、有島一郎らと劇団空気座の旗揚げにかかわる。1948年(昭和23年)9月、榎本健一の「エノケン一座」有楽座公演のために『禁男の楽園』の戯曲を書く。
1951年(昭和26年)、「日本演劇協会」設立に参加、久保田万太郎を会長とした同協会の理事となる。1952年(昭和27年)、美空ひばりに『リンゴ追分』を作詞
『リンゴ追分』は、ラジオ「リンゴ園の少女」の挿入歌として小沢不二夫が作詞。この歌は、友人でこのラジオドラマの音楽を担当した作曲家米山正夫氏とともに、当時住んでいた石神井の小沢不二夫宅にて、炬燵に向かい合い一番を作った。この時米山正夫氏の膝には、小沢の娘やっとつかまり立ちができるほどの有美がちょこんと座っていたという。小沢、米山のコンビは不動のものとなり「リンゴ追分」の詩とメロディは出来上がった。また中の「お岩木山のてっぺんを…」から始まるひばりが語る詩は、レコーディング時に、小沢不二夫が書き、口移しでひばりに教えるとあっという間に覚え、そのレコーディング風景は帰って妻弥生に話した。それを聴いた妻も作品の出来の良さを確信した。