小笠原貞任
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小笠原貞頼の曾孫と称して幕府に小笠原諸島への渡航を願い出た人物であり、のちに小笠原家とは無関係として重追放を受けた人物である(小笠原貞任一件)[1][2]。
大槻文彦『小笠原島新誌』にある「史記」によると貞頼の子に長直という者がおり、その長直の孫「浪人宮内貞任」として記述されている[3]。貞頼の子孫を称する小笠原長直なる人物も小笠原諸島への渡航を願い出たとされ、延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が小笠原の島々への巡検から帰還すると、無人島は旧領であり寛永2年(1625年)から途絶えているとして、次回無人島の巡検の際には自らも行かせてほしいとの渡海願を幕府に提出したという[3][2]。長直は派遣されれば島の様子や父からの伝承を申し上げると述べたが、幕府は特に沙汰をしなかった[2]。元禄15年(1702年)には長直の子を称する長啓(ながのり)が同様の訴えを幕府に願い出たが、幕府は思いとどまるよう沙汰をしている[2]。貞任はこの長啓の子を自称していた[2]。
1727年(享保12年)に貞任は、曾祖父・貞頼が徳川家康の命を受けて1593年(文禄2年)に小笠原諸島を発見したという[4]『巽無人島記』の記述をもとに、小笠原諸島への渡航と領有権を町奉行・大岡忠相に願い出た。
翌享保13年(1728年)、幕府はこれを許可したが、自らは高齢であったため甥の式部長晃(ながあき)を先発として派遣した[1][2]。ところが小倉藩の小笠原宗家から貞頼や貞任は一族ではないとの異議申し立てが出された[1]。奉行所の調べにより小笠原家とは無関係とされ、貞任は財産や家財の没収と重追放に処せられた[2]。先発の長晃は重追放になったとも漂流して消息不明になったともいう[1][2]。
『巽無人島記』は享保年間(1716年 - 1735年)に書かれた筆者不明の書物であるが、延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が巡検を行ったときには未だ無人島と称されていたとされ、貞任が幕府から渡海願を得るために用いた偽古文書とする説がある[5]。