『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている[8]。
貞頼発見説は具体的には『巽無人島記』という享保年間(1716年 - 1735年)に書かれた筆者不明の書物を根拠にしている[9]。同書では家康が「小笠原島」を命名したとするが、小笠原諸島で延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が巡検を行ったときには未だ無人島と称されており、後述の小笠原貞任が幕府から渡海願を得るための偽古文書とする説がある[9]。また、貞頼が小笠原諸島を巡検した記録も発見されておらず貞頼発見説の真相は明らかでない[9]。
『小笠原島新誌』によると以後も貞頼の子の長直なる人物が渡海していたが、病により上野国館林に在住し、海路が遠く険悪であったことなどから渡海を取りやめたとする[5]。一説には貞頼の子の長直なる人物の代となった寛永2年(1625年)に上野国館林に転封されたことなどから通航を絶つに至ったとしている[2]。
なお、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある。
延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が小笠原の島々を巡検して帰還したが、この年に貞頼の子孫を称する小笠原長直が次回無人島の巡検の際には自らも行かせてほしいとの渡海願を幕府に提出した[10]。長直は派遣されれば島の様子や父からの伝承を申し上げると述べたが、幕府は特に沙汰をしなかった[10]。
元禄15年(1702年)には長直の子を称する長啓(ながのり)が同様の訴えを幕府に願い出たが、幕府は思いとどまるよう沙汰をしている[10]。
享保12年(1727年)、貞頼の子孫(長啓の子)を自称する浪人の小笠原貞任が[10]、『巽無人島記』の記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た[8]。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。またこれらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである[11]。貞任の訴えにより幕府は翌享保13年(1728年)に一度渡航を許可した[10]。これをもとに貞任は甥の式部長晃(ながあき)を先発として島に派遣した[6][10]。ところが小倉藩の小笠原宗家から貞頼や貞任は一族ではないとの異議申し立てが出された[6]。奉行所が再度調査した結果、貞任は享保20年(1735年)に身分詐称による追放処分を受けた(小笠原貞任一件[6])。先発の長晃は重追放になったとも漂流して消息不明になったともいう[6][10]。