小西政継
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- 1938年 - 11月19日、東京都千代田区飯田橋で生まれる[2]。
- 1954年 - 千代田区立麹町中学校を卒業し、活版印刷会社に入社。
- 1957年 - 18歳、9月、山学同志会に第5期生として入会する[2]。
- 1967年 - 28歳、2月7日、遠藤二郎・星野隆男とともに、マッターホルン北壁の冬季登攀に成功する(第3登)[3]。冬季登攀の訓練は国内(滝谷)のみで行い、夏季の予行登攀も行わないという当時の常識を打ち破る登攀だった。
- 1969年 - 1970年には、エベレストの南西壁を試登するが、この際の大人数による極地法への違和感から少人数での尖鋭的な登攀への志向をより強めていく。
- 1971年 - 32歳、グランドジョラス北壁の冬季登ウォーカー側稜攀に成功する(第3登)。この時、凍傷で両足指10本と左手小指を失う[4]。
- 1976年 - 37歳、山学同志会隊で、ジャヌー北壁の初登頂に成功する[4]。
- 1980年 - 41歳、カンチェンジュンガ主峰北壁の無酸素登攀を指揮、登頂に導く[5]。小西自身は登頂に失敗。
- 1982年 - 43歳、日中国交正常化10周年を記念した日本山岳協会主催の遠征隊の登攀隊長として参加、K2(チョゴリ)北壁の初登頂を無酸素での達成に導く[5]。隊員の遭難により、小西自身は登頂を断念。
- 1983年 - 44歳、山学同志会の無酸素によるエベレスト遠征隊は登頂者を出すも、同時期にアタックをしたイエティ同人隊は吉野寛、禿博信が遭難。体力の低下により一線を退くことを考える。
- 1984年 - 46歳、「クリエイター9000」を設立[5]、本格的な登山から退く。
- 1993年 - アラスカ州のマッキンリーに登頂。
- 1994年 - 小西自らが「エグゼクティブ登山」と呼んだ、現在主流のガイド付きのスタイルで、再びヒマラヤ登山を開始する。「シルバータートル隊」同人に参加し、ダウラギリⅠ峰に登頂。自身初の8000m峰登頂となる。
- 1995年 - シシャパンマ中央峰に登頂を果たす。
- 1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶つ。
著書
- 『マッターホルン北壁:日本人冬期初登攀』(山と溪谷社、1968年)ISBN 4122041163
- 『凍てる岩肌に魅せられて』(毎日新聞社、1971年)ISBN 4122031915
- 『グランドジョラス北壁:ウオーカー稜冬期日本人初登攀』(山と溪谷社、1971年)ISBN 4-12-551830-0
- 『ジャヌー北壁』(白水社、1976年)ISBN 4560030081
- 『ロッククライミングの本』(白水社、1978年)ISBN 4560029806
- 『北壁の七人:カンチェンジュンガ無酸素登頂記』(山と溪谷社、1981年)
- 『山は晴天』(中央公論社、1982年)ISBN 4122031206
- 『砂漠と氷雪の彼方に:チョゴリ登頂の全記録』(山と溪谷社、1983年)ISBN 4635041395
- 小西政継監修、内田修写真『実戦登山セミナー:北八ガ岳から穂高岳へ-北八ガ岳から穂高岳へ』(山と溪谷社、1986年)ISBN 4635160106
- 『小西政継ボクのザイル仲間たち』山と溪谷社、1987年12月25日。ISBN 4-635-17027-6。