小野寺景綱
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佐野昌綱と主従関係にあり、寺岡村(現在の足利市寺岡町)を知行していた。また、長尾景長の同心衆でもあり、永禄4年12月18日、長尾景長から下野国足利郡大窪(現:足利市大久保町)を所望し賜った。[1]当時から佐野と長尾(足利)の中立的な立場であることにあらぬ噂が立っていたのか、「世間の噂は全くの誤りで、小野寺は佐野にも足利にも縁のある一族。佐野と長尾の合戦には加担せず平穏無事を願っている」と小野寺文書に書き残されている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると、改易され川崎村在住の浪人となった。家臣達は帰農した。
慶長9年(1604年)、川崎村は徳川氏領[2]となり、徳川家康によって川崎村に新たな領主が配属されたが、旧臣達は水害などを理由に毎年年貢を遅延して納めていた。川崎村の代官はこの様子を見て、先代領主の小野寺氏を再興させるための企てに違いないと領主に報告し、領主は徳川家康に川崎村で一揆の兆候があると讒言。徳川家康は小笠原右近(小笠原貞慶か)に景綱を討ち取るよう命じた。[3]
景綱はこの噂を聞きつけると、榊原式部大輔康政・土井大炊頭利勝に申し開きを行ったが、聞き入れてもらえなかった。そこで景綱は、同じ下野小野寺氏で従弟にあたる貞滝坊(小野寺慶範)を訪ね、私達の運命はこれまでだろう。6歳の娘であるお藤と、小野寺一族に伝わる文書や宝物一式を託したいと願い出た。貞滝坊(小野寺慶範)はこれを引き受け、お藤を養子にした。そして、梁田の領主小川甲斐守の二男とお藤を婚姻させ、婿養子として小川甲斐守の二男を小野寺家に迎え入れ家督を継がせた。
その後、江戸から小笠原右近が家来を大勢連れて川崎村を訪ねてきた。景綱の旧臣達100名近くは集って戦の準備を始めたが、公務に対して弓を引くなどあってはならぬこととしてこれを諫めた。(この決断により、後述する家臣達の多くの命が救われ、今日に至る)。景綱は河内大和之助・丸山土佐之助を遣いとして送り、「幕府の治世の初めに領地全てを召し上げられたが、これは私の不注意であり、恨みに思ったことは御座いません。土井・榊原両家に勘当を解いて欲しく願い出ましたが、願い出は届かず、今度は罪無くして死罪を申し付けられ、是非に及ばずです。父子共に速やかに自害を願い出たい。」と伝えたところ、小笠原右近は神妙な顔付きで「小野寺家は代々の名家である。もしかしたら上様の思い違いもあるかもしれないので、ただちに自害する必要はせずともよい。」として、逃亡出来ないよう100人近くの騎兵と景綱父子3名を舟に載せ、江戸へと向かった。そして小笠原右近は飛脚を送ったが、事態が変わることはなかった。家康からの返答は「即刻、切腹させよ」との返答があり、古河の下大志田で舟を着け切腹となった。
家臣(川崎城付)[4]
城代
- 河内大和之助
(河内家は小野寺道綱の代から仕え道綱と共に討死した旧来の家臣で、代々執権職を担う)
- 江田弾正
奥家老
- 丸山土佐之助
- 和泉玄番
侍大将七騎用人
- 小林刑部
- 河嶋源八
- 中井頼母
- 西城源七
- 尾崎源蔵
- 小堀壱岐
- 新藤帯刀
弓頭
- 斉王沢隼人
- 小貫丹後
- 仁木安芸
- 中山藤八
物見番頭
- 主計
- 外記
- 主税
歩頭
- 河内弥市
- 小野善七
- 岩崎治郎七
足軽頭
- 仁木弥八
- 津久井惣右衛門
- 清水権七
勘定方
- 清水藤兵衛
- 関口宇右衛門
- 横山兵庫
小中物見番
- 多田兵部
- 秋山源三郎
小六郎殿後見人
- 河内弥八
- 藤木大七
小八郎殿後見人
- 蓮沼藤三郎
旗侍
- 蘇原又助
- 富田宇右門
- 横山兵庫
船奉行
- 神田新六
- 船田源蔵
目付
- 中山
- 和泉大八
山奉行
- 斎藤山之助
- 藤野藤八
- 小池権蔵
- 蘓原団六
代官
- 和泉
- 大行与右衛門
- 中山長兵衛
- 嶋田市郎右衛門
近習侍
- 渡辺助之進
- 仁木伊織
- 新藤源九郎
- 山本新八
- 岡部八弥
- 赤坂助弥
- 倉林新弥
- 細田長助
- 小林源三郎
- 小貫七弥
- 江原五郎八
- 小堀吉内
- 岡善助
- 磯新蔵
- 富田
- 長井長八郎
- 長井友之助
- 柴山長太郎
- 河内雲八
- 河内雲平
- 藤木一角
- 出井新平
- 出井新八
- 石原権之助
- 亀田太郎八
亀奉行
- 大福寺
仲間頭
- 隠田五郎右衛門
- 藤木長助
旗持
- 蘓原五助
花畑守
- 鷲見太郎兵衛
歩足軽
都合八十二人
句
小野寺家に伝わる文書の中に、小野寺景綱直筆の短冊が残されている。
「諸とともに あるかなきかの 身を詫びて ただ古へを しのぶばかりぞ」