尹克栄
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1903年、ソウル生まれ。校洞普通学校を卒業した後、1917年に京城高等普通学校を経て、京城法学専門学校に入学したが、1921年に中退した。その後は日本に渡り、東京音楽学校・東洋音楽学校などで声楽とバイオリンを専攻した[1]。
1923年にセクトン会の創立同人に加わり、朝鮮語の童謡の創作を試みた。同年7月にソウルで開催された「全朝鮮少年指導者大会」に参加し、『童謡に対する実在論』(동요에 대한 실재론)というタイトルの講演をした。関東大震災後の1924年にソウルに帰り、童謡団体「ダリア会」を組織し[3]、児童文化運動、童謡創作と作曲運動を行った。1926年1月、ピアニストのオ・インギョンと共に満洲の龍井に行き、現地の東興中学校・光明中学校・光明高等女学校で音楽教師として約10年間務めた。現地で『ツバメ兄妹』(제비 남매)『雨傘3つ並んで』(우산 셋이 나란히)『漁り』(고기잡이)などの多くの童謡を作曲した後、1936年にソウルに戻り、音楽活動をしばらくした。同年にまた渡日し、1937年に劇場の歌手として就職し、芸術団の創立を試みた。1940年にまたソウル・間島を経由してハルビンに行き、ハルビン芸術団を創立したが失敗した。1941年には龍井に戻り、駅馬車事業を営みながら、間島省協和会会長を務めた。その後もまたハルビンで芸術活動を行った。解放後は1946年に龍井で警備隊に捕らえられ、3年の刑を宣告されたが、服役中に保釈された。1947年に天津から手押し車を押して朝鮮半島南部に帰国した[1]。
1987年には子供の心性啓発と馴化を目的とする童話・童謡・絵・演劇などの活動を推進する団体である童心文化院を設立・運営したが、1988年に85歳で死去した[3]。その後、童心文化院は半月文化院に改称され、ソウル未来遺産第1号である尹克栄家屋の管理者となった[1]。