尹暉

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尹 暉(いん き、生年不詳 - 937年)は、五代十国時代軍人本貫魏州大名県[1]

若くして勇健で魏博節度使の楊師厚に仕えて軍士となった。天祐12年(915年)、晋王李存勗が魏州に入ると、尹暉は小校に抜擢され、黄河で戦いに従軍して、騎兵に対して歩兵で戦闘し、功績を挙げた[2]

同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、尹暉は諸軍指揮使を歴任した。天成から長興年間にかけて、数州の刺史を歴任し、厳衛軍右廂都指揮使に累進した。応順元年(934年)、閔帝の軍が潞王李従珂鳳翔府に討つと、尹暉は楊思権とともに李従珂に帰順した。李従珂に興唐府を任せると約束された。清泰元年(同年)、末帝(李従珂)が即位し、石敬瑭洛陽に入ると、尹暉と道路で遭遇し、尹暉は馬上に鞭を横たえたまま石敬瑭に会釈した。石敬瑭は尹暉の無礼に怒って、末帝に面会したときに尹暉を外藩に出すよう求めた[2][1]。このため尹暉は斉州防禦使として出され[3]、さらに彰国軍節度使に転じた[4]

天福元年(936年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、尹暉は右衛大将軍に任じられた。天福2年(937年)、范延光が興唐府に拠って反乱を計画すると、ひそかに使者を派遣して尹暉を誘った。尹暉は范延光の文書を得て恐れ、汴水に沿ってに逃れようとした。高祖はこれを聞いて、尹暉を召喚したが、尹暉は開封府に出頭せず、人に殺された[2][1]

子の尹勲は北宋に仕えて軍職を歴任し、内外馬歩軍都軍頭に転じ、郢州防禦使となった[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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