尹祚乾
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| 尹祚乾 | |
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『大満洲国要人画報』(1934年) | |
| プロフィール | |
| 出生: | 1887年(光緒13年)12月[1][2][3][注 1] |
| 死去: | 1964年(民国53年)[4][注 2] |
| 出身地: |
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| 職業: | 海軍軍人・実業家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 尹祚乾 |
| 簡体字: | 尹祚乾 |
| 拼音: | Yǐn Zuòqián |
| ラテン字: | Yin Tso-ch’ien |
| 和名表記: | いん そけん |
| 発音転記: | イン・ツォーチエン |
尹 祚乾(いん そけん、1887年 〈光緖3年〉12月 – 1964年 〈民国53年〉)は、中華民国・満洲国の海軍軍人・実業家。中華民国では東北艦隊に所属し、満洲国では江防艦隊司令官・江上軍司令官となる。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に転じた。
満洲国以前の経歴
幼い頃から学を好み、1903年(光緒29年)に日本へ留学する[5]。1910年(明治43年)4月5日、東京高等商船学校航海科を卒業[6]。その後、海軍砲術学校・海軍水雷学校も卒業した[1][2]。
帰国直後に辛亥革命が勃発すると、尹祚乾は上海で革命派に加わり、滬軍都督府海軍陸戦隊大隊長をつとめた[4]。1913年(民国2年)1月31日、北京政府で海軍少校となる[7]。1922年(民国11年)7月、「利済」艦長となり、以後、「利捷」艦長、「江亭」艦長を歴任している[2]。なお、1927年(民国16年)7月23日に海軍中校の位を授与された[7]。国民政府では張学良率いる東北軍で「江興」艦長となり、ソ連海軍とも交戦したことがある[5]。
江防艦隊・江上軍司令官
1931年(民国20年)9月に満洲事変が勃発すると、東北艦隊総指揮官・沈鴻烈、艦隊司令官・許剛哲らは南方へ逃れたが、総教練官兼海軍補充隊大隊長の尹祚乾は東北に残留した。尹は海軍少佐・佐々木高信と交渉し、翌1932年(民国21年)2月15日、東北艦隊の艦艇5隻をハルビンで日本側に引き渡している[8]。
満洲国建国後の同年(大同元年)8月、尹祚乾は海軍少将江防艦隊司令官に就任し、1935年(康徳2年)8月、海軍中将に昇進した[1][2]。1939年(康徳6年)2月、陸軍中将江上軍司令官となった[9]。しかし1941年(康徳8年)3月3日、尹は軍事諮義官に移されて江防艦隊・江上軍に対する指揮権を喪失し、李文龍が後任の江上軍司令官となった[10][注 3]。
汪兆銘政権への移籍
同年(民国30年)、南京国民政府(汪兆銘政権)軍事委員会委員[注 4]・凌霄の推薦により、尹祚乾は南京国民政府に移籍した[5]。1942年(民国31年)10月2日、尹は南京要港中将司令に任命されている[11]。同年中に海軍上将へ昇進し、翌1943年(民国32年)10月10日には凌と共に陸軍少将も兼ねた[12]。しかし、この頃から汪兆銘政権の陸海軍人間で内部対立が激化したため、1944年(民国33年)3月、尹はいったん軍人を引退し、南京市で内河輪船公司経理となっている[5]。
日本敗北後、尹祚乾は漢奸の名簿にいったんは入れられたが、後になって蔣介石の手配により実際の訴追を免れた模様である[注 5]。1949年(民国38年)、台湾に逃れ、海軍司令の1人として再起用された。晩年は軍人を再引退して実業界に入った[5]。