尹致旿
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生い立ち
牙山生まれ[1]。尹英烈の9男3女のうちの長男。5歳から四書三経のような漢文学を学び、神童と呼ばれた。祖父の尹取東と学んでいたが開化の潮流が起こり、取東は致旿に学者になるよう勧め、早婚(年少期の婚約)後に高僧の多い表訓寺に入り、仏典と有学を修める[2]。以後、3年はそれに専念した[2]。最初の妻は金潤晶の娘[1]。
留学と開化
開化の道へ入ることを決め、推薦で1894年議政府主事[1]。同年甲申政変で親族の尹雄烈、尹致昊が開化派として関与したことで致旿も開化派とされたため日本へ亡命[1]。東京に行き、1年後に慶應義塾に入る[1][2]。在学中の1895年中枢院参事官[1]。それから兼特派大使、李堈が同職になると自らも随行員として東京駐在。1896年12月、弟の尹致晟ととも慶應義塾を卒業[1]。東京外国語学校朝鮮語教師になる[1]。
教育啓蒙活動
官僚・教師活動
新聞で結婚募集の広告を出し、金甲淳の娘尹高麗(金高麗)と再婚[1][4]。高麗は数人の候補の中から選ばれ、父が外交官だったことから日本と朝鮮両方の女学校を出た珍しい女性だった[4]。
1905年第二次日韓協約が締結されてから教育や啓蒙によって力をつけるなければならないと強く説いた。1906年4月に赦免[1]。同年大韓自強会加入。同年7月1日、同会仁川支会長鄭在洪が朴泳孝を銃撃、重傷になった後に自決した。同月7日、致旿は劉秉珌、池錫永とともに鄭在洪の葬儀を執り行い、彼を称賛する趣旨書を作った。同年10月から1907年3月まで日本留学生監督[1]。学部学務局長にも就任。1907年国文硏究所が設立されると委員長となる。同年7月30日の冊封礼で冊礼都監の捧金宝官を担ったことで正三品通政大夫に昇進。
1907年興士団役員となる[1]。同年、女子教育会附属学校の女子普学院が3000ウォンの借金で経営難に陥ったときは11人の有志を説得して運営費に回し、致旿も寄付金を出して女子普学院維持会財団設立。致旿は当初から臨時理事長となり、しばらく在任にした。同校が1909年2月に輔明学校と統合するまで資金面の援助を行った。
教育機関の後援
致旿は妻の高麗が養心女学校の英語教師になることを支援した。周囲の偏見や長男の妻だったことから批判する者もいたが致旿は高麗を積極的に支えた。1908年11月初頭、高麗は養原女学校発起会を組織、致旿は同月11日の養原女学校開校や資金の援助を行った。尹致昊、兪吉濬とともに養心女学校財団顧問となった[5]。
1908年、畿湖興学会評議員、西北学会加入。同年年5月、李煕斗が器械体操を学ぶ武徒械体育部を設立した際に参加、器械体操の普及を後援した。同年6月、養原女学校設立に際して寄付を行う。同年9月、国民の体育発展のために親睦団体の軍人倶楽部に武徒器械体育部が作られ、弓射、乗馬、柔道、撃剣の振興を推進した。
1908年9月7日、工業練習所の学生が工業研究会を設立、その際に会員となり1909年1月28日創刊の同会機関紙『工業会』の執筆者となった。同年、教育啓蒙団体の講諭会幹事を務める。1909年11月、伊藤博文追悼の政府代表として派遣、布陣担任委員。
1910年、中央学校第4代校長[6]。天道教の中央講堂建設のために自身が所有する土地1500坪を寄付[7]。同年7月23日、従二品昇進。
人生後期
韓国併合後
1910年8月、大韓帝国副賛議[8]。同月27日、嘉善大夫。同月から9月10日まで畿湖学校校長。
同年10月の日韓併合後、朝鮮総督府中枢院副賛議[1]。1911年から1915年3月まで中枢院賛議[8][9]。1911年6月16日、音楽団体の調陽倶楽部の後援組織、正楽維持会の財団理事となる[10]。1912年1月、朝鮮総督府の親日同志の親睦団体、以文会が設立され加入、幹事となる。
1912年、京城広蔵会社の改革のためと称して株主から株券を詐取したことで1916年3月27日、京城地方法院は懲役1年の実刑判決、同年6月14月の京城覆審法院は一審判決を破棄して懲役1年執行猶予2年の有罪判決[11][12]。これにより正五位返上を命じられ[13]、皇太子渡韓記念章、韓国併合記念章を褫奪された[14]。詐欺事件で中枢院賛議を辞職、以後の公職就任要請は全て断った。
朝鮮を日本が統治している時代は教育と啓蒙、社会事業は行うも政治的発言は控えた。1919年、三・一運動に加わるも逮捕は免れた。それからは隠れて興士団の活動をした他は表立っては行動しなかった。
晩年
教育、啓蒙、教育機関支援は挫折、学校が総督府学務局によって認可が降りなくなり廃校すると書道、骨董品、美術品収集に勤しんだ。それらは太平洋戦争と終戦に多くが失われ、朝鮮戦争で焼失した。
1937年8月、総督府主催の時局懇談会に参加、修養同友会事件が発生したときは不逞鮮人と疑われた。1939年11月、朝鮮儒道連合会評議員。1940年、海平尹氏代表を選ぶとき有力な候補だったが弟の尹致昭に譲った。1941年11月、修養同友会事件関係者全員が無罪放免、釈放となると自らも総督府警務局の監視を解かれた。
没後
亡骸は楊州郡眞乾邑文化理(現南楊州市眞乾面文化理)山75-5番地に埋葬。2000年代以降に忠清南道牙山市陰峰面にある長男尹日善の墓近くに改葬された。
栄典
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 “윤치오” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2026年4月22日閲覧。
- 1 2 3 매일경제, 1987년 2월 23일자 9면, 사회면
- ↑ “대한제국 직원록 1908년 (02. 내각 > 문관전고소)”. 2013年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月17日閲覧。
- 1 2 근대여성
- ↑ 養心女学校は1915年3月、養原女学校とともに同徳女子校に吸収合併された。
- ↑ 1980년 2월 18일자 동아일보 3면
- ↑ “천도교 중앙대교당”. 2011年3月30日閲覧。
- 1 2 “일제 친일반민족행위자 708명 명단 : 정치 : 인터넷한겨레 The Hankyoreh”. 2012年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月18日閲覧。
- ↑ 반민족문제연구소 (1993-02-01). “윤치호 : 2대째 일본 귀족으로 입적한 ‘귀화한 일본인’ (김도훈)”. 친일파 99인 1. 돌베개. ISBN 9788971990117
- ↑ 송방송, 《증보한국음악통사》 (민속원, 2007) 535쪽
- ↑ 「尹致旿判決」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1916年3月28日、2頁。2026年4月22日閲覧。
- ↑ 「株券詐取の判決」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1916年6月16日、5頁。2026年4月22日閲覧。
- 1 2 “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 394. (1916年7月12日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2953298/1/3?page=right 2026年1月14日閲覧。
- 1 2 “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 331. (1917年3月15日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2953497/1/2?page=left 2026年1月14日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 456. (1913年7月22日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2952394/1/2?page=right 2026年4月22日閲覧。
- ↑ “辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 538. (1909年5月24日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2951121/1/8?page=right 2026年4月22日閲覧。
- ↑ “辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 3. (1913年5月22日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2952340/1/17?page=left 2026年4月22日閲覧。
