尾崎喜助は元来近江国の浪人であり、天正期初期には山城国西岡衆の物集女氏に仕えたのち、豊臣秀吉・秀長兄弟に仕えた。茶人としても知られ、号を「閑斎」とした。
『松屋会記』によれば、天正4年(1576年)10月23日に「郡山尾崎喜助会」で「今焼茶碗」が用いられた記録がある。また天正14年(1586年)3月2日には、秀長の茶頭であった曲音による茶会に松屋久政が招かれ、その後も尾崎喜助や横浜一庵、桑山重晴らが主催した茶会に久政がたびたび招かれている。
慶長4年(1599年)3月6日には、古田織部が金森可重、小堀政一らと共に吉野花見に出向いた際、尾崎喜介の初瀬での饗応が記録され、織部が太鼓を打ち、遠州が曲舞を舞ったという逸話が残る。
関ヶ原の戦い(1600年)では西軍につき、丹後田辺城に籠る細川幽斎を攻略したとされる。戦後は徳川家康に仕えたとも伝わるが、武士を辞して大和国今井町の町人となったとされる。娘の「はつ」は、今井町惣年寄尾崎家の尾崎心斗(源左衛門)に嫁いでいる。