尾崎城
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別名
尾崎館
城郭構造
平城
天守構造
なし
築城主
不明
(青森県) | |
|---|---|
| 別名 | 尾崎館 |
| 城郭構造 | 平城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 不明 |
| 築城年 | 不明 |
| 主な改修者 | 不明 |
| 主な城主 | 尾崎氏 |
| 廃城年 | 慶長5年(1600年) |
| 遺構 | 郭・土塁・堀・切岸 |
| 指定文化財 | 史跡等未指定[1][2] |
| 埋蔵文化財 包蔵地番号 | 青森県No.210058[2] |
| 位置 | 北緯40度35分14.3秒 東経140度36分46.6秒 / 北緯40.587306度 東経140.612944度座標: 北緯40度35分14.3秒 東経140度36分46.6秒 / 北緯40.587306度 東経140.612944度 |
| 地図 | |
歴史
築城年は不明。暦応2年(1339年)尾崎合戦があり、曽我貞光の属館尾崎館が攻撃されたことから、この時既に尾崎城はあったものと思われる。
室町時代・戦国時代は、大浦元信の舎弟、尾崎三郎左衛門を祖とする尾崎氏が拠っていた。尾崎氏は、初期は浪岡北畠氏の配下だったが、後に大光寺城南部氏の支配下となったという。隣村の新屋氏と同盟し、浅瀬石千徳氏とも婚姻関係を結んで、日和見状態だったが、天正4年(1576年)、前年の本城、大光寺城落城につき、城主尾崎喜蔵は新屋城主新屋源次郎と共に降伏、臣従した(『藩史』)。降伏を天正2年(1574年『一統志』)、天正11年(1583年『津軽年代記』)とする資料もある。降伏後も、尾崎城周辺1800石(1300石とも)、領内50戸の旧領と尾崎城を安堵された。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いのときには、喜蔵以下、板垣将兼、多田玄蕃、松野久七の4将に津軽為信は増援を求めた。しかし、松野以外の将は、500人で堀越城を武力占拠。しかし、3将は、金小三郎らに鎮圧され、板垣兵部将兼、尾崎喜蔵は堀越城内で討たれ、多田玄蕃は居城三ッ目内館で爆死した(喜蔵は、側近福王寺与十郎と尾崎で討たれたとも)。これにより、尾崎城は主を失い、一族など残党が尾崎城に籠城したが、田中惣右衛門、奥村民部らに鎮圧された。一族は妻子13歳以上打ち首、その他12歳以下・70歳以上は領外追放され、盛岡藩に逃れたという。
