尾崎陞
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新潟県中頸城郡明治村(後の頸城村、現上越市)出身[1]。日本中学校卒業、1927年(昭和2年)3月早稲田大学法学部独法科卒業、同年4月司法官試補として東京地方裁判所所属、1929年(昭和4年)同地裁判事[1][2][3]。減俸問題の反対運動があったとき尾崎は若手判事の急先鋒として動いた[4]。
尾崎は中学時代は日本主義で大学時代に民法を専攻していたが左翼理論に興味を持ち、共産主義に共鳴、マルクス主義者となり、1932年(昭和7年)7月に勧誘され一週間後に日本共産党入党、その際に判事を辞めるか考えるも活動に効果があるとその職に止まった[1][5][6][7]。同じく判事の為成養之助と交流したり同志を通じて毎月5円から10円を党に提供した[7][8]。これが司法官赤化事件として尾崎は同年11月13日検挙、同月22日依願免本官、妻と兄のこともあり1933年(昭和8年)8月31日に脱党、転向した[9][10][11][12]。これは赤色ギャング事件の今泉善一の取り調べで共産党に司法官が関わっていることを意味する供述から判明したことであった[13]。1934年(昭和9年)2月10日、東京地裁で懲役8年の実刑判決[14](求刑:懲役10年[15])。同年6月30日の控訴審では懲役6年の実刑判決[16]。これにより大礼記念章(昭和)を褫奪された[17]。
1938年(昭和13年)4月29日、憲法発布50年に際して恩赦、仮出所[18]。同年11月、緋田工、川崎堅雄らと日本国体研究所を結成して東亜協同体論を行い、日本主義で主に中央地方で左翼転向者から組織したが尾崎は研究所で時期尚早だとなっていた革新政策を論じていたことや全国民指導勢力結成問題で決裂、尾崎、川崎らは全国民指導勢力を目標としており、1940年(昭和15年)1月に日本建設協会を結成[19][20]。
1950年(昭和25年)弁護士となって自由法曹団に入る[1]。日本弁護士連合会人権擁護委員を務め、百里基地訴訟弁護団長や第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団長、免田事件の再審への道に尽力、松川事件にも関わった[1][21][22]。
この他、日本ベトナム友好協会理事長も歴任[23]。
栄典
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 「尾崎陞」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ。https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E9%99%9E。コトバンクより2025年2月14日閲覧。
- ↑ 帝国法曹大観編纂会 編『帝国法曹大観 改訂第3版』帝国法曹大観編纂会、1929年、196頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1445778/1/149?page=right。2025年2月14日閲覧。
- ↑ “卒業生”. 日本学園中学校・高等学校 (n.d.). 2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「尾崎元判事は共産党 司法部不祥事件の真相」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1933年1月18日、号外、1頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「通常議会 貴院秘密会で 共産党と五一五事件」『日伯新聞』1933年3月9日、6頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「木乃伊取が木乃伊にか 尾崎在学中の受持主任中村敎授語る」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1933年1月19日、5頁。2025年2月14日閲覧。
- 1 2 「懐しの法廷に被告として起つ 赤化事件の元判事」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1934年2月6日、5頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「又々司法官三名の赤化事件発覚」『伯剌西爾時報』伯剌西爾時報社、1933年12月9日、1頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 時事調査会 編『現代時事常識辞典 : 附・新語辞彙』教文社、1940年、33頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1266933/1/34?page=left。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 国民新聞社 編『国民年鑑 昭和9年』国民新聞社、1933年、467頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1120202/1/254?page=left。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 『神兵隊事件公判速記録 下巻』神兵隊事件公判記録編纂部、1939年、545頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1281855/1/280?page=left。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「尾崎元判事も転向を決意 愛妻たちの真情から」『京城日報』京城日報社、1933年8月15日、2頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 菊池次郎『近世日本社会運動史 資料編』白揚社、1934年、340-341頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1279017/1/180?page=left。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官九名に懲役刑の言渡し」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年2月10日、1頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官に峻厳なる求刑 不忠正に死に値すと論告 尾崎判事は十年」『新世界日日新聞』2025年2月14日、3頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官懲役六年 控訴審の判決」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年6月30日、2頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「彙報 官庁事項 勲等功級及従軍記章等褫奪」『官報』大蔵省印刷局、1935年1月8日、69頁。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 編『毎日年鑑 昭和14年 日本人名選』大阪毎日新聞社 東京日日新聞社、1938年、351頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1072043/1/182?page=left。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 木下半治『新体制辞典』朝日新聞社、1941年、178頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1270201/1/98?page=right。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 藤野豊『水平運動の社会思想史的研究』雄山閣出版、1991年、286頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/3061429/1/146。2025年2月14日閲覧。
- ↑ 「2019 年度大会 〈戦争の記憶〉をめぐる同時代史 歴史表現はどう向きあってきたか」(PDF)『同時代史学会 News Letter』第35巻、同時代史学会、2020年6月、46頁、2025年2月14日閲覧。
- ↑ “[ID:40528] 人生いつも素人 弁護士尾崎陞の挑戦 : 資料情報”. 川崎市労働資料デジタルアーカイブ (n.d.). 2025年2月14日閲覧。
- ↑ “アジア・アフリカ研究所の50年” (PDF). アジア・アフリカ研究所. p. 87 (n.d.). 2025年2月14日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 679. (1929年11月27日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2957341/1/9?page=left 2025年2月14日閲覧。