為成養之助
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大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)出身[注 1][1]。1927年(昭和2年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業、同年12月高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)4月司法官試験合格、司法官試補、1930年(昭和5年)12月予備判事、1932年(昭和7年)長崎地方裁判所転任で判事任官、1933年(昭和8年)2月まで同地裁民事部判事[1][3]。
為成は任官後すぐに革新政党の集会に行き、それは警察官に中止だと叫ばれ散会させられたが、自らは警官に頭を殴られ警察署に留置された[2]。1930年夏、試補だったときに同じく判事の尾崎陞や日本共産党党員と交流して赤化、滝内礼作と研究会を結成、毎月1円か2円から10円、7円から10円、10円から12円の資金提供をして完全に赤化、長崎に転任してからは日本労働組合全国協議会(全協)加入や地裁職員を中心とする全日本無産者芸術家連盟(ナップ)関係の文化グループを結成、『赤旗』を持ち込んだりして共産党の党勢拡大を図った[2][3][4][5]。全協弾圧に端を発して尾崎などとの活動が司法官赤化事件として1932年2月27日、治安維持法違反で為成を検挙、1933年2月27日付けで依願免本官、同年11月30日の報道解禁時点で同じく検挙された判事滝内礼作、福田力之助は転向するも為成はそうはせず、転向者が続いたことを白い目で見たという[5][6][7]。1934年(昭和9年)2月10日、東京地裁で懲役5年の実刑判決[8](求刑:懲役6年[9])。同年6月30日の控訴審では懲役3年の実刑判決[10]。これにより大礼記念章(昭和)を褫奪された[11]。
栄典
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 帝国法曹大観編纂会 編『帝国法曹大観 改訂第3版』帝国法曹大観編纂会、1929年、210頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1445778/1/156?page=right。2025年2月6日閲覧。
- 1 2 3 4 5 「共謀罪 平成の治安維持法」『長崎新聞』長崎新聞社、2017年6月11日。
- 1 2 「司法部内赤化事件 魔道に墜ちた少壮判事 上層階級を目的に党員獲得運動 札幌の滝内礼作判事」『台南新報』台南活版社、1933年11月29日、夕刊、2頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 「又々司法官三名の赤化事件発覚」『伯剌西爾時報』伯剌西爾時報社、1933年12月9日、1頁。2026年2月6日閲覧。
- 1 2 「更に司法部内から赤化判事三人出づ 長崎、山形、札幌の地方裁判所で相次いで一斉検挙さる」『京城日報』京城日報社、1933年11月30日、夕刊、7頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 時事調査会 編『現代時事常識辞典 : 附・新語辞彙』教文社、1940年、254-255頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1266933/1/152?page=right。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 「叙任及辞令」『官報』大蔵省印刷局、1933年3月28日、708頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官九名に懲役刑の言渡し」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年2月10日、1頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官に峻厳なる求刑 不忠正に死に値すと論告 尾崎判事は十年」『新世界日日新聞』1934年2月10日、3頁。2026年2月5日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官懲役六年 控訴審の判決」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年6月30日、2頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 「彙報 官庁事項 勲等功級及従軍記章等褫奪」『官報』大蔵省印刷局、1935年2月4日、71頁。2026年2月6日閲覧。
- ↑ 朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮工場名簿 昭和18年度版』朝鮮工業協会、1943年、107頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1906251/1/59?page=left。2026年2月6日閲覧。
- ↑ “彙報 司法 弁護士名簿登録等”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 168. (1947年2月28日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2962550/1/3?page=right 2026年2月6日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 596. (1931年2月28日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2957716/1/4?page=right 2026年2月6日閲覧。
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