尾平鉱山
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| 尾平鉱山 | |
|---|---|
| 所在地 | |
| 所在地 | 大分県大野郡長谷川村尾平鉱山(現:豊後大野市緒方町尾平鉱山) |
| 国 | |
| 座標 | 北緯32度51分26秒 東経131度23分20秒 / 北緯32.8572635度 東経131.38881度座標: 北緯32度51分26秒 東経131度23分20秒 / 北緯32.8572635度 東経131.38881度 |
| 生産 | |
| 産出物 | 錫、銀 |
| 歴史 | |
| 開山 | 1617年 |
| 閉山 | 1959年 |
| 所有者 | |
| 企業 | 上田鉱業 ⇒三菱鉱業株式会社 ⇒太平鉱業株式会社 ⇒三菱金属鉱業株式会社 |
| 取得時期 | 1935年(三菱による取得) |
| プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
尾平鉱山(おびらこうざん)は、かつて大分県大野郡(現在の豊後大野市緒方町)にあった錫鉱山である。後述の通り、近代に入ってからは尾平鉱山は複数存在しており、このうち、三菱尾平鉱山と蔵内尾平鉱山が著名であった。
歴史
1547年(天文16年)、銀鉱脈が存在することが知られるようになり大炊坑で銀鉱石の採石が行われていたとの記録があるが、公式には1617年(元和3年)の蒸籠山(こしきやま)坑で錫の採掘が行われるようになったことをもって開山とする。鉱山経営は当時の岡藩藩主の直轄事業として行われ、尾平鉱山は藩財政の要となっていた。岡藩には1636年(寛永13年)から1639年(寛永16年)まで江戸時代を代表する通貨である「寛永通宝」の鋳造所が設置され、尾平鉱山産出の錫が通貨の鋳造に使用されていた。その後、当時の採掘技術の限界で産出量が低下し、明治・大正時代になってもなお動力が水力以外になかったこと等が原因で産出量をのばすことができなかった。
1935年(昭和10年)、上田鉱業から上田所有の鉱山を全面的に移譲された三菱鉱業(三菱金属を経て現三菱マテリアル)が鉱山経営に携わるようになり、一気に鉱山設備の近代化や探鉱が行われたために飛躍的に産出量が増加し、尾平鉱山の最盛期が訪れる。1940年(昭和15年)1月に月間6,000トンの処理能力をもつ新選鉱場が完成、1941年(昭和16年)には出鉱トン数5万3,222トン、金属錫390.84トンを記録している。
しかし、尾平鉱山の盛期は長く続かなかった。1952年(昭和27年)の38,550トンから翌1953年(昭和28年)には15,372トンと激減し、ついに1954年(昭和29年)には採掘は中止され閉山に至る[1]。高品位の鉱脈を掘りつくしたことや、銅や亜鉛等他の産出金属も採算を確保するだけの量や品質が満たせなかったことで操業を断念せざるを得ない状況にあったためである。その後、蔵内尾平鉱山として採鉱が再開されたが、1959年(昭和34年)に完全に閉山した[2]。