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山下現有

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生誕 天保3年8月28日(1832年9月22日)
尾張国丹羽郡大赤見村(現・愛知県一宮市大赤見)
死没 昭和9年(1934年)4月11日
京都府京都市 知恩院
宗派 浄土宗
山下 現有
生誕 天保3年8月28日(1832年9月22日)
尾張国丹羽郡大赤見村(現・愛知県一宮市大赤見)
死没 昭和9年(1934年)4月11日
京都府京都市 知恩院
宗派 浄土宗
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山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832年9月22日)[1][注釈 1] - 昭和9年(1934年)4月11日)は、日本の浄土宗の僧。浄土宗管長、知恩院門跡。号は謙蓮社孝誉。近代日本仏教における代表的な高僧の一人である[4][2]。一宗一派の枠を越え、広く仏教界全体の長老として仰がれ、「生き仏」と称された[4]。

謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保11年(1840年)三重県松阪市の樹敬寺にて梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(1844年)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り修学、嘉永2年(1849年)増上寺において宗戒両脈を相承した。賢従の栄転により館林善導寺・京都清浄華院に随従するも、学問不足を理由に辞した後、増上寺の学席に復し、最勝院名阿について研鑽する。同7年安祥室寮主に選任され、また居住地である山下谷にちなんで山下を姓とし、名を現有と改める[2]。

廃仏毀釈の影響により増上寺の学制が退廃する中、学徒の指導育成につとめた。さらに当時の山口藩制は領民が領外に出ることを禁じていたため、学徒の檀林就学が阻まれていた。事態を憂慮した増上寺明賢の命により、明治3年(1870年)養鵜徹定とともに山口県善生寺に山口講学場(浄土宗学校)を設立、関東檀林の制度に則して講義や加行伝宗伝戒を行った。明治7年(1874年)東京幡随院の住職となるが、一年足らずで安祥室に戻る。明治12年(1879年)愛知県津島市の円成寺住職、続いて明治20年(1887年)百万遍知恩寺法主に就任する。また同じ明治20年(1887年)頃、阿弥陀仏とキリストを比較考察しようとする好学の念から老書生ではあったが、山下小三郎の名で、東京・築地の立教大学校(立教大学の前身校の一つ)に修学する。学課での勉強の傍らキリスト教の教えを聞き、チャニング・ウィリアムズ主教からも愛されたという。キリスト教の信仰に傾き洗礼を受けるにいたったが、寺の関係上、卒業に至らず退学することとなった[5]。明治23年(1890年)京都市転法輪寺に隠棲し、念仏三昧の生活に入る。

明治26年(1893年)山口県長門市大日比西円寺住職を兼ねる。明治30年(1897年)増上寺法主に任じられ、山規の改定・御忌会の再興・東京婦人会創立・授戒五重の毎年開筵などの大業をなした。明治35年(1902年)知恩院門跡および浄土宗管長となり、「明照大師」諡号の勅額拝戴や宗祖700年遠忌などの重大法要を奉修した。

また阿弥陀堂再建をはじめとした多くの事業を達成し、昭和3年(1928年)昭和天皇即位の大礼の際には、布教・教育・社会教化の功績者として金杯を受けた。一宗一派にとどまることなく、仏教界の長老として敬われ、「生き仏」と称された[4]。

著書に『安心決定集』(1893年)、『攖寧邨舎詩』(1930年)がある[2]。

年譜

  • 天保11年(1840年) - 9歳で得度、俊敬と命名。
  • 嘉永2年(1849年) - 増上寺にて宗戒両脈を相承。
  • 明治3年(1870年) - 山口善生寺に浄土宗学校(山口講学場)を設立。
  • 明治7年(1874年) - 東京幡随院住職。
  • 明治12年(1879年) - 愛知県津島市円成寺住職。
  • 明治20年(1887年) - 京都百万遍知恩寺法主。
  • 明治23年(1890年) - 京都転法輪寺に隠棲。
  • 明治26年(1893年) - 山口県大日比西円寺住職を兼ねる。
  • 明治30年(1897年) - 東京増上寺法主。
  • 明治35年(1902年) - 京都知恩院第79世門跡、浄土宗管長に就任。
  • 昭和3年(1928年) - 昭和天皇即位大礼に際し金杯を受ける。
  • 昭和9年(1934年) - 知恩院にて遷化[6]。享年103(数え年)。

著作

  • 『安心決定集』(1893年)
  • 『攖寧邨舎詩』(1930年)

評価

脚注

参考文献

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