12代藩主・山内豊資の次男として誕生した。幼名は敏衛。
嘉永元年(1848年)、先代藩主だった兄の豊熈が6月16日に死去したため、同年9月6日に家督を継いだが、2週間足らず後の9月18日に25歳で死去した。
嗣子がなく、跡を従弟の豊信(豊資の弟・豊著の長男)が継いだ。
あまりに急な死去であり、幕府に嗣子の届けをしていなかったため、後継者不在で山内家は改易となるはずであったが、藩は幕閣に根回しして、表向きには豊惇は病気のため隠居したことにし、翌年2月に死が公表された。その間に分家の豊信(容堂)が養嗣子とされ、家督を相続した。
法号は譲恭院篤信自省。
墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所[2](高知県高知市筆山町)[1]。