山内豊範
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| 時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
| 生誕 | 弘化3年4月15日(1846年5月10日)[1] |
| 死没 | 明治19年(1886年)7月13日(40歳没) |
| 改名 | 幼名:熊五郎、鹿次郎、号:鵬洋 |
| 戒名 | 崇文院殿天常端誠大居士 |
| 墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
| 官位 | 正二位 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
| 藩 | 土佐藩主→高知藩知事 |
| 氏族 | 山内氏 |
| 父母 | 父:山内豊資、養父:山内豊信 |
| 兄弟 | 豊熈、豊惇、豊矩、豊範 |
| 妻 |
正室:毛利信順(毛利斉熙三男)の娘 継室:上杉斉憲の娘 |
| 子 | 豊景、豊静、豊中、寿子、娘(大関増輝正室) |
第12代藩主・山内豊資の十一男として生まれる。嘉永元年(1848年)に兄の豊熈(第13代藩主)、豊惇(第14代藩主)が相次いで死去したため後継者と目されたが、わずか3歳だったため、家督は分家出身の豊信(容堂)が継承することとなった。安政6年(1859年)2月26日、豊信が安政の大獄で隠居処分となったため、家督を継承した。
しかし文久2年(1862年)に豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることとなり、豊範の主体性は薄かった。同年、朝廷から京都警護の内勅を受ける。明治2年(1869年)には薩摩藩、長州藩などと共に連名で版籍奉還を行なった。土佐藩が明治政府の下で高知藩になると、藩知事に就任する。「人民平均の理」という政策を立ち上げ、身分制度の廃止、四民平等を強く打ち出した[2]。また、義父・上杉斉憲の米沢藩が戊辰戦争によって官軍の追討を受けると、その赦免に奔走した。
明治4年(1871年)の廃藩置県後は、新政府から東京への移住を命じられる。同年9月15日午後1時に現在の高知市鷹匠町にあった散田屋敷を出て、川船で浦戸港に向かい、夕方6時に蒸気船で高知を出発。翌16日に大阪府川口 (大阪市)に到着し、夕顔船への乗り換えと荷物の積みこみで19日まで滞在。滞在中は道頓堀で芝居見物を楽しむなど、余暇を過ごした。19日午後2時に川口を出帆し、午後3時に神戸に着船、食料積み込みの間に外国人居留地を見物。夕方6時に再出帆し、静岡と伊豆の下田を経て、21日夕方6時過ぎに東京の品川に着船する。22日の午後2時25分に日本橋の箱崎邸へ着き、山内容堂らと再会を果たした[3]。
明治維新の功績により、朝廷から恩賞を賜ったが、それを基金に私塾である「幼年学舎」を高知市の追手筋に創設。明治6年には東京府箱崎町の自邸に、優秀な旧藩士を毎年選定し、公費で東京に留学させる「海南私塾」を設立した。明治9年になると、陸軍中将山地元治や広瀬実栄などが計画する一般子弟の学力普及や教育の統一化に賛同し、私財を投じて「海南私塾」の分校を高知市に設立、後に高知県立高知小津高等学校となる[4][5]。その他、鉄道事業や銀行事業などの成立に寄与している。明治19年(1886年)7月13日、41歳で死去した。跡を長男の豊景が継いだ。