山口友昌
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慶安元年(1648年)11月26日、伊地知伝之丞橘定治の三男として誕生する。定治は橘氏嫡流・薄家最後の当主である薄諸光の曾孫であり、諸光の遺児である深井定基の孫、円満院宮坊官の古守大蔵卿法眼定益の子にあたる。母は下北面・井家摂津守豊家の娘。実の兄弟には、長兄の山形加賀守宗房(宗堅)と、次兄の賛者縫殿允橘定成(伊地知伝七、澤谷承意)がいる。当初は山口右大史安倍亮昌(後の義父・山口定友と先祖(山口継友)を共にする)の猶子となったが、後に中絶していた少外記を職掌とする山口氏を再興し、その家督を相続した。朝廷の実務官人として、外記方に属する「少外記」の職を長年務めた。貞享4年(1687年)に再興された大嘗会においては、主基行事として儀礼に参与している。官位は最終的に従五位上に至り、享保14年(1729年)7月2日に82歳で没した[1][2]。