1919年、4月1日、岩手県岩泉町(母親の実家とされる)に生まれる。幼少期を奥州市前沢区で過ごした後、一関市に移る。教師であった父のもと、厳格な教育を受けて育つ。五人兄弟の五男[4]。
1941年、日本陸軍に志願入隊。満州で憲兵として勤務したのち、陸軍中野学校を卒業。東方戦線で第25軍憲兵隊に配属され、シンガポール攻略、フィリピン防衛に従事した。このとき、小野田寛郎が部下となり、その後も親交が続いた。ルソン島沖で、船が魚雷攻撃を受け沈没し、海に投げ出されたうえ機銃掃射を受けるが、キッコーマンの樽につかまって生還した。終戦後は英国軍の捕虜となる[5]。
1947年、シンガポールから復員。上野の戦災孤児に食料を届ける活動を開始する。米軍のサンタクロースが子どもたちに菓子を配る姿に触れ、日本におけるサンタクロース活動を志す[6]。
1948年、新日本学園をサンタクロースとして初訪問。のちに山口が企画した巨人軍のチャリティ試合による収益で、新日本学園に「希望の鐘」の鐘楼を再建した[7]。
1950年、養護施設の子どもたちにも「甲子園のような目指せる舞台を」という想いから、第1回全日本少年野球大会の開催を提唱。同年、朝日新聞厚生文化事業団の「走るサンタクロース」を開始し、企業の協賛を得ながら、多くの養護施設などをめぐった(15年間)[8]。
1951年、朝日新聞社で働き始め、自らの福祉活動と並行して活動する。
1961年、東海汽船の旅客船の上で養護施設の子どもたちと映画俳優が交流するイベント「よい子に贈る海上クリスマスの集い」を開催(5年間実施)。このとき一日船長を務めた森繁久彌と意気投合し、生涯の友となる[9]。
1968年、森繁久彌の映画『地の涯に生きるもの』のロケ地である知床(羅臼町、斜里町)との縁から、羅臼町の保育園訪問を開始[10]。その後、池田町や斜里町にも活動を広げる。
1983年より沖縄県読谷村での活動を開始し、1986年には残波岬公園に日本宝くじ協会の支援で「サイクル列車」を設置[11]。
1991年、初の海外活動としてシンガポールを訪問し、日本人幼稚園および難民キャンプを訪問した。1994年には韓国・慶州の残留日本人のいるナザレ園を訪問[12]。
1997年、サンタ活動50年を迎える。森繫久彌が発起人となって『五十年を祝う会』が行われた[13]。
2003年、最後のサンタクロース全国行脚を行う。56年間の活動で、訪問施設数は延べ2,320か所、約21万人にプレゼントを贈った。
2004年4月30日、死去。享年85。
死後、遺志により第55回全日本少年野球大会(山形県)において「山口秀和杯」が贈呈された。また、「子どもたちへの最後のプレゼントは自然である」との考えから、全財産を知床自然アカデミーに寄贈した[14]。