山岡景佐 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 享禄4年(1531年)死没 天正17年(1589年)1月改名 景佐→宗入(法号) 凡例山岡 景佐時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 享禄4年(1531年)死没 天正17年(1589年)1月改名 景佐→宗入(法号)別名 景祐、景成墓所 京都府京都市東山の知恩寺養源院官位 対馬守主君 六角氏→織田信長→羽柴秀吉→徳川氏氏族 山岡氏父母 父:山岡景之兄弟 景隆、景佐、景猶、景友、景冬、景光、景重、景国、暹実妻 山口盛隆娘子 景長、景忠、酒井忠次養女(本郷頼泰室→曽我尚佑室)テンプレートを表示 山岡 景佐(やまおか かげすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 享禄4年(1531年)、山岡景之の次男として誕生。当初は六角氏に仕えたが、永禄11年(1568年)頃に織田信長が上洛を果たすと降伏。弟・景猶と共に信長配下の明智光秀に属し、元亀3年(1572年)降伏した松永久秀に代わり多聞山城の城番や、天正4年(1576年)4月の本願寺攻めに参加した。 光秀の丹波国平定には参加しておらず、この頃は信長や佐久間信盛の下で茶会に参加した記録(『宗及記』)が多く見られることから、兄・景隆と同じく佐久間信盛の与力に属したか、信長の直臣となったと考えられる。以後、天正7年(1579年)の有岡城攻め、天正9年(1581年)の伊賀国攻めなどに従軍。天正10年(1582年)、信長最後の上洛の際には蒲生賢秀と共に、安土城二の丸の番衆を務めた。 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去すると、光秀からの勧誘を受けるが、兄・景隆と共に光秀に対し抵抗姿勢を示す。また徳川家康の伊賀越えを助けたともいわれる。以後、羽柴秀吉に属して伊勢国へ出陣したが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家に内応したとの嫌疑をかけられ、兄と共に改易された。その後、徳川氏の家臣となった。 天正17年(1589年)1月に駿府にて死去。享年59[1]。 脚注 ↑ 一説に天正16年(1588年)1月11日死去ともいわれる。 Related Articles