山岡景命
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山岡景命は、弘化2年(1845年)に近江国膳所中庄(現・滋賀県大津市中庄)の膳所藩士山岡景重の子として生まれ[1][2]、幼児より聡明で工夫改良を行うことが好きだったと伝えられる[1]。京都で師事した岩垣月洲の門下には、西川吉輔・黒田麹廬・杉浦正臣・重剛兄弟・川島宇一郎・鵜飼退蔵・山崎友親・大音龍太郎・富岡鉄斎・富田嘉則・河上市蔵・浅田徳則・永元愿蔵など錚々たる顔ぶれがそろっていた[3]。
明治5年(1872年)2月、野洲郡守山村(現滋賀県守山市)の人民共立学校の訓道に招かれ[2]、10月、編集者に着任した『滋賀新聞』は、全国に先駆けて発行された地方紙であった[2]。当時の新聞発行は、京都・東京・大阪・神戸・長崎の5都市しか実施しておらず、大津は新聞社を持つ全国6番目の町となり、当初は京都新聞の分社として設立し、後に独立した[1]。元士族を印刷工として雇ったとも伝えられ、新聞名は「淡海新聞」から「滋賀日報」、「淡海日報」から「江越日報」と変遷を重ねる。この間、山岡は社主を引き受けると、県下で最初に新聞に活版印刷を取り入れて、日刊の新聞をつぎつぎと刊行した[2]。山岡の会社は後に滋賀県庁の御用印刷所の役割も担っている[1]。
明治15年(1882年)、自由民権運動が盛んになる中大津でも大津自由党が結成され、2月10日に党の第一次会において党規約が決まると、暫定の人事として会長職に山岡景命、常務委員に宇野保太郎・富田毎千代・酒井有が就任した[4]が、政治は国会開設へと向かう中、同年、経営不振により山岡の新聞は廃刊となった[2]。
月見山霊園にある山岡家墓所には景命の墓碑も建立されており、大正12年(1923年)9月19日、横浜で没したと刻まれている。