大音龍太郎
幕末から明治初期の地方官僚
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生涯
前半生
大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)[注釈 2]、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた[5][7][8][9][1][3][4]。父の周倫は厚斎と号する医者で[5]、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった[7][8][9][3]。母は浅井郡曽根村(滋賀県長浜市)の漢学者の娘で外佐(とさ)。
9歳から12歳まで[要出典]母方の叔父・大岡松堂(右仲)(おおおか しょうどう、1797 - 1875年 儒学者)に漢詩を学ぶ[5][7][8][9]。13歳で母を亡くす。14歳のとき[3][4]京都の岩垣月洲に儒学を学ぶ[5][5][7][8][9][3]。傍ら、西洋の事情を知ろうとして蘭学を学ぶ[5][8]。17歳の8月に帰郷。父死亡。
18歳の4月[要出典]江戸の昌平黌に入る[5][9][1][4]。10月に去り[要出典]、加賀、能登、越中に行く[5][7][8][9]。19歳4月[要出典]、信州松代で佐久間象山を訪問[5][7][8][9][4]。5月に[要出典]足利学校に学ぶ[5][7][8][9]。20歳3月、大岡孝太郎と帰郷。
安政6年(1859年)以後は、伊香相救社の小山政徳(初代伊香・西浅井郡長)は親戚の大音龍太郎が江戸より帰国したことで、共に天下の形勢を語り合うようになる。戸田貫徹・大音らの影響で「勤王」に目覚めた小山は、父の跡を継いで庄屋を務める傍ら、私塾を開設して人材の育成に努めたという研究もある(江北図書館文庫研究会)[要出典]。
文久元年(1861年)、彦根藩家老・岡本黄石の紹介状を携えて、井伊家の旧領上野国箕輪郷(群馬県高崎市)の龍門寺[注釈 3]住職・道介(のちの牧野再龍/玉龍)[注釈 4]を訪れ、勤王思想の教えを受ける[6]。奥羽や蝦夷地まで行って地理を究める[5][9][4]。
太田浩司は「この頃(文久2年)、彦根藩を味方に引き入れようとする伊藤博文らが接触を図ってきたので、黄石は谷鉄臣(たに てつおみ)、外村程輔、河上吉太郎、北川徳之丞、大音龍太郎らを士に取り立て、長州藩士などの勤王派志士の支援にあたらせた。」と述べる[10]。
文久3年(1863年)に帰郷[4]。柳ヶ瀬の関所の関守となった[注釈 5][5][7][8][9]。三上藤川[注釈 6]とも交流があった[11]。
慶応2年(1866年)、藤田東湖の「正気の歌」にちなんで「養気の歌」を作る[5]。京都では鴻雪爪を頼り、岩倉具視の屋敷に潜伏したという[6]。
慶応3年(1867年)、岡山藩校の閑谷黌教頭となった[12]。長崎に行き海外に渡航を志すが[4]、維新が始まると東山道総督が東征に出発するのに加わった[5][7][8][9][4]。
上野国での活動
慶応4年3月6日(1868年3月29日)、東山道先鋒総督府に従軍していた大音は、奥羽諸藩の情勢偵察を命じられた[13][注釈 7]。越後国に潜伏して反官軍的傾向のある長岡藩や会津藩、また彦根藩の親戚にあたる与板藩などを探り、北陸道総督府の進軍を側面的に援助する成果を挙げたのち、三国峠経由で上野国に入り、4月22日(5月14日)総督府に復帰した[15]。小栗忠順討伐の命令が出されたのは同日のことである[15]。なお与板藩に向かう際に志津一郎と変名した大音は、龍門寺の道介和尚を訪問し、道介は還俗して牧野再生(再龍)を名乗って大音の参謀となり彼の失脚まで行動を共にした[16]。

閏4月6日(4月28日)、小栗忠順が烏川河原で斬首された[17]。閏4月10日(5月2日)に館林城内で岩倉具定総督に謁見した吉井藩の須田修介・黒沢新吾は、大音に小栗忠順・又一父子の首や没収した武器などを引き渡している[18]。高崎で大音と会見した与板藩士・二階堂保則は、『風後余草』に小栗父子の斬首によって大音は上州諸藩から鬼神のように恐れられていると書き記している[17][19][20]。
閏4月13日(5月5日)、大音は上野巡察使に任命され、副巡察使に長州藩の原保太郎と土佐藩の豊永貫一郎が任命された[21][22][23][24]。大音は新田官軍の大館謙三郎と篠塚軍平を上野嚮導役に任命し、高崎宿の石上寺を当面の宿舎とすることにした[24][23][22]。
閏4月15日(5月7日)、大音は石上寺に渋川宿の後藤八郎右衛門と堀口文秤(文平、堀口藍園の息子)を呼び出し、小栗の残した荷物の整理と、権田村の人々への施しなどにより維新政府の仁政を示すことを指示し、その費用20両を与えた[22]。これに伊勢崎町の細野伝右衛門と伊与久村の宮崎修吉の2人も加わり、大音は彼らと護衛の高崎藩兵を引き連れて権田村に向かい、名主・長左衛門の家に宿泊した[25][26]。一行は小栗とその家臣が朝廷に対して反逆を企てたので天誅を加えたという高札を立て、さらに知行所の農民が小栗処刑後村を脱走したことについては、一切の罪を問わないから、直ちに帰村して農業に励むようにという高札、それに小栗の妻子や親類の者にも一切の責任を問わず、自主的に総督府へ出頭するならばその後の生活を保証するという布告も掲示した[27]。一行は閏4月18日から19日(5月10日-11日)にかけて小栗の荷物の整理を行い[28][26]、小栗の領地であった権田村・下斎田村・与六分村(玉村町)などは天皇が直接統治すると発表し[28]、23日(15日)に石上寺に帰還した[28][26]。以後、石山寺に東山道総督府巡察使役所が開設され、上野国支配の拠点となった[28][26]。後藤・堀口・細野・宮崎の4人は上野巡察使役所付となり、岩鼻県発足と同時に県役人として登用されて活躍することとなる[26]。
閏4月13日(5月5日)、利根郡戸倉に現れた会津藩兵を討伐すべく、前橋藩・沼田藩などの兵士を出動させ、その指揮は副巡察使の原・豊永がとることとなった[29]。閏4月19日(6月9日)に、権田村出張中の大音は前橋・高崎・安中・伊勢崎・七日市5藩に、沼田藩応援のため兵を出し、豊永・原の指揮に入るように命じている[30]。永井宿本陣に入った諸藩連合軍は、24日(14日)に般若塚に拠点を築く会津藩軍を攻撃して勝利を収めた(三国峠の戦い)[29][31]。閏4月27日(6月17日)に勝利の報を受けた大音は高崎から江戸に向かい、総督府に対して菊の章旗の授与を願い出てこれを許され、菊の章旗は新田満次郎率いる新田官軍によって護衛されて沼田に向かった[29][31]。しかし、江戸に残していた隊員が新田の家臣を名乗って借金を繰返し逮捕された旨の報告があったことから、大音は6月2日(7月21日)に大館謙三郎を呼び出し、旗を没収して全隊員の国元での謹慎を命じた[32]。
5月2日(6月21日)には綿貫村(高崎市)の農家に寄宿しているところを発見された岩鼻陣屋最後の代官・高畠弾正を高崎に出頭させ、大音は謀叛の形跡も意図もないと判断して江戸へ帰ることを許可している[33]。5月10日(6月29日)、大音は監察使府軍監に任命され[34]、以後は前橋藩を仲介として上野国諸藩の軍事も指揮することとなる[35]。
6月1日(7月20日)には高畠弾正が回した生糸や蚕種紙に関する印税取り立ての触書は無効であるという廻状を発した[33]。
6月10日(7月29日)、新田俊純(満次郎)は旦謹一郎を大音へ派遣[36]。
岩鼻県知県事

慶応4年6月17日(1868年8月5日)、維新政府は岩鼻県を設置し、初代知県事には大音龍太郎が任命された[37][7][8][9][2]。県庁は旧幕府の岩鼻陣屋跡(高崎市岩鼻町)に置かれた[7][8][9][2][3]。支配的地域はかって岩鼻陣屋と羽生陣屋(埼玉県羽生市)が支配していた村々であり、その範囲は上野国および武蔵国賀美・秩父・那賀・榛沢・男衾郡における旧幕府領・旗本領・寺社領というものであった[7][8][9][2]。大音の肩書は「軍監兼当分知事」という軍監を主とし県知事を従とするもので、これはこの地域では維新政府に従わない傾向も強いために、軍政を布く方が適切と維新政府が判断したためであった[7][8][9][2]。
6月28日(8月16日)、大音は岩鼻県庁に入り、村々の役人を集め知県事就任の演説を行った[7][38][39][40]。また、「善良な県民を褒めたたえ、邪悪な者を処罰し、貧しい者の生活にも目が届くような政治を行い、王政の有難さを県民に理解させる」旨の施政方針を記した廻状を7月1日付けで村々に回した[7][38][39][40]。7月1日(8月18日)、大音は村役人に民図帳と人別帳、ならびに安政5年(1858年)から慶応3年(1867年)までの年貢割付状と皆済目録を用意して県庁に出頭することを命じた[7][38][41][40]。さらに、岩鼻県の支配地域であることを示す標示杭の設置を指示した[7][38][39][40]。7月10日(8月27日)には村々の代表者を集めて新政府・県庁の布達に必ず従うよう命じ、それを誓約する請書の提出も命令した[7][38][39][40]。
大音は80歳以上の老人や極貧の者に金を支給するほか、岩鼻陣屋が2年間農民に貸し与えていた米の返済を天皇の温情により免除することを言い渡すなど、天皇の仁政を県民に浸透させる施策に取り組んだ一方、意に反する者に対しては、徹底的な弾圧を行った[7][38]。7月5日(8月22日)に、盗賊とそれに類すると思われる者は取調べをせずにその場で斬首することと、官軍の名を偽った者は直ちに打ち首にするという原則を示していた通り[42]、「無宿など悪事をしたと認定された者は弁解を許されずその場で首を斬られ、表向きは大変穏やかな世間になった」と甘楽郡小平村(神流町)の名主・茂嘉重は記録している[42][43][44]。また田畑に雑草を生やすことも処罰の対象とされ、玉村宿の名主は宿内の畑に雑草が生えているのを見逃したことを理由に戸〆(謹慎)の上名主を解任という処分を受けている[45]。
ただしこのような弾圧政策は大音の個人的な資質に大きく依存する面もあるが、「劇郡・平郡ニヨリ寛猛ノ処置有之ハ勿論ノ事」(『復古期』)という維新政府の統治原則に従ったまでである、とみることもできるとの指摘もされている[46]。
7月13日(8月30日)、軍監を免職となった[47]。また8月には治安維持のため村落の上層農民らを安民隊として組織することとし、以前から鉄砲の所持を許されている者を選抜して有事の際は直ちに対応できる体制を整備するとともに、不穏分子の所持する鉄砲の没収を行った[48]。8月下旬、大音は中山道碓氷関所を除く上野国内の関所の廃止を通達する[49]。
10月13日(11月26日)、明治天皇が京都から東幸し江戸城に入った時期を狙い、岩鼻県の農民が東京で大音罷免を求める訴状を目安箱に投じた[50][51][52]。同一人物によるものかは不明だが訴状は2通が出され、一通目では大音が高崎藩と内通して賄賂を取り、村によって異なる待遇をしていること、二通目では大音が農民の迷惑に及ぶことばかりしており、高崎藩までも軍監の威光をかさに着て勝手なことをしていることを訴えている[50][51][52]。
明治元年12月7日(1869年1月19日)、大音は岩鼻県知事を免職となった[53][50][51][52][3]。後任の岩鼻県知事には明治2年1月13日(2月23日)、小室信夫が着任した[50][52]。
罷免後
明治2年6月2日(1869年7月10日)、太政官より金一封を賜いその功を称される[5]。
その後は彦根藩の役人として勤務。明治2年8月22日(1869年9月27日)から明治3年3月28日(1870年4月28日)まで少参事を、明治4年7月10日(1871年8月25日)から15日(30日)まで権少参事を勤める[54]。権大参事に進んだともされる[5][4]。明治4年(1871年)の彦根藩における録高は十石[55]。
廃藩置県後は明治4年(1871年)に大蔵省に勤め九等官吏から七等官吏まで進む[5]。
1874年(明治7年)7月28日、台湾出兵に際し設けられた蕃地事務局へ出向[56]。大音はJames Kentによる『ケント氏万国公法』の翻訳にも校訂として携わった[57][5]。
明治六年の政変後、板垣退助らに同調して司法省判事を辞した大東義徹、同じく東京に在った大海原尚義らが彦根に戻り、1874年(明治7年)に彦根議社という結社の組織を進めた。そして、1875年(明治8年)1月には大東義徹・大海原の他に西村捨三・橋本正人・石黒務・田部密・大音ら旧藩士8名が発起人となって彦根議社旨趣綱領を制定した[58]。
1876年(明治9年)には武節貫治、磯崎芳樹ら彦根士族によって士族授産を目的に進められた彦根製糸所の設立に際し、製糸社設置予定地の所有者として大音も名を連ねたが、内務権参事・酒井明が大音の関与を見とがめ、調査を行った彦根出庁から、大音について「聊人望不宜(いささかじんぼうよろしからず)」という報告を受けている[59]。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発すると、征韓論を政府に建議したり、西郷軍に通じたとの嫌疑を受けて、大東義徹と大音は東京で官憲に拘束されたが[5][60]、大音は間もなく放免され下野[5]。大音の拘束により彦根士族らによる彦根製糸所の設立計画は断念されることとなった[59]。
1878年(明治11年)発行の長尾無墨編『善光寺繁昌記 三編』の序文に「菱陀大音龍併書」とある。
1880年(明治13年)ごろには諏訪湖の干拓を計画したという[5]。琵琶湖と日本海を繋ぐ運河建設も計画したという[5]。
1890年(明治21年)、木ノ本村と西山村の間に直線道路を作り、山梨子村に達する436間(約793メートル)のトンネルを掘り、山梨子に港を作る計画を立て、測量図を作って当局ヘ建議したが、実現はしなかった[5]。
晩年は鼻を病み、眼に及び失明した[5]。
1912年(大正元年)11月23日に東京で死去した[5]。72歳で没[12]。菩提寺は滋賀県彦根市の龍潭寺だったが[5]、遺命により墓所は東京都豊島区の本教寺にある[5][1]。
逸話
- 現在国の天然記念物に指定されている原町の大ケヤキ(東吾妻町)を、大音は県庁舎の門扉にするために伐採しようと目論み、町民の反対を押し切って属官大島某が切ろうとしたところ、内部が空洞であったことから中止されたという[61]。
- 自ら馬にまたがって田んぼを見回り、雑草が生えているのを見とがめると農民の首を刎ねて田んぼの中に晒したので、百姓は夜提灯を点けて草取りを行ったと、衆議院議員を勤めた高津仲次郎は1928年(昭和3年)『上毛新聞』紙上に書いている[42][43][44]。
- 大音の武断政治については、彼を全面的に支援した堀口五郎兵衛(藍園)ですら「刑法の事濫刑ニ立至り不申様致度、是のミ心痛仕候」(新保冷平家文書)と苦言を呈する程であった[62]。
- 岩鼻県知県事罷免後には大音を顕彰する動きも存在した。大山祇神社(渋川市石原)の境内には「祭龍祠」と正面に刻まれた大音の善政を讃える生祠が明治2年(1889年)3月に建立されている[63]。これは水利に恵まれない石原村では水田の1割ほどは稲作ができなかったにもかかわらず、通常の田と同じ年貢を納めることを強いられていたため、慶応4年(1868年)に大音へ嘆願を行い、彼自身による実地検分の結果、畑として従来の税額の3分の1を減額することが認められたことによるのだという[63]。
- 大音が岩鼻県出張所を設置した吾妻郡原町(東吾妻町)においても、大音と後藤八郎右衛門、堀口文秤の3人に対し、当時岩鼻県に下調方補として勤務していた新井三左衛門と松井兵右衛門の2人を中心とする原町有志が明治2年(1869年)に神号を贈ることを試みている[63]。
- 綾戸穴道(渋川市上白井綾戸)には、1874年(明治7年)東京の大音を後藤八郎右衛門が訪れた際に大音が依頼に応えて作った「弘道亀鑑」の詩が1875年(明治8年)壁面に刻まれた[64][65]。この石刻は1963年(昭和38年)国道17号開通工事により破壊されたが、現在の綾戸トンネル南側に碑として修復されている[65]。
- 明治2年(1869年)、自然斎(絵付師)が商う旅館に、彦根藩小参事の大音龍太郎が訪れた際、庭に梨の花が満開であり、一面に白雪が降り積もっているように見えたことに因んで、自然斎が用いた号雪香亭(せっこうてい)の一つを「雪香亭主人」と書いた焼き物がある[66]。
