山崎豊

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生誕 山崎 文次郎
(1831-12-21) 1831年12月21日
日本の旗 日本武蔵国川越志義町
死没 (1912-02-25) 1912年2月25日(80歳没)
日本の旗 日本・埼玉県入間郡川越町大字川越
墓地 大蓮寺(川越市)
国籍 日本の旗 日本
やまざき ゆたか
山崎 豊
山崎豊
生誕 山崎 文次郎
(1831-12-21) 1831年12月21日
日本の旗 日本武蔵国川越志義町
死没 (1912-02-25) 1912年2月25日(80歳没)
日本の旗 日本・埼玉県入間郡川越町大字川越
墓地 大蓮寺(川越市)
国籍 日本の旗 日本
別名 山崎 嘉七
職業 実業家
著名な実績 第八十五国立銀行頭取
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山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日天保2年11月18日) - 1912年明治45年)2月25日)は、幕末から明治時代実業家

天保2年(1831年)11月18日[1]武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎[2]。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した[3]。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。

山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した[2]。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した[2]慶応3年(1867年)には川越藩の御用商人となり藩に献金を行い、帯刀の許諾や紋付上下の拝領などといった恩恵を受けた[4]

明治に入ると、川越の経済活動の中心的人物の一人となった。学制発布にあたって横田五郎兵衛・栗原与らとともに資金を集め、志義町の烏山稲荷神社境内に志義学校を創設した[5]

明治11年(1878年)には第八十五国立銀行の設立発起人の一人となり、取締役兼支配人に就任した[6]。明治25年(1892年)には同行の頭取に就任[7]、さらに明治31年(1898年)に民営化によって第八十五銀行となったのちも頭取の座にあった[8]

この時期、明治16年(1883年)には家督と嘉七の名を息子に継がせ[9][10]、以降はの名で活動した[11]

明治29年(1896年)には第八十五国立銀行の個人貯蓄部門の性質を持った川越貯蓄銀行を創設、両行の頭取を兼務した[12]大正7年(1918年)の時点で資本金100万円という資本力を誇った第八十五銀行は豊の財力・経営手腕に多くを負っていた。

明治33年(1900年)には埼玉県で最初の川越商業会議所(現在の川越商工会議所)を発足させ、初代会頭となった[8]。明治42年(1909年)には埼玉県知事から産業功労者として表彰された[9]

豊は川越藩士だった橋本雅邦と交流があり、その縁で雅邦作品を頒布する画宝会を明治32年に結成した[13]。豊は雅邦や菊池容斎川合玉堂の作品を蒐集した。それらは豊の生誕150周年を記念して、昭和57年(1982年11月3日に開館した山崎美術館で見ることができる。

明治45年(1912年)2月25日死去[14][15][注釈 1]。享年82。市内の大蓮寺に埋葬された[8]

家族

5代目嘉七 6代目嘉七
5代目嘉七
6代目嘉七
  • 養子・覺太郎(安政元年9月7日生)
    • 明治12年に分家。川越電気鉄道副社長を務めた[17]。のちに家督と名前を長男・衡助に与え[18]、自らは博之と改名[19]
  • 長男・5代目嘉七(明治2年(1869年)6月7日 - 昭和2年(1927年)1月2日[20]
    • 幼名不明。亀屋で芋菓子や洋菓子を手掛けた[3]。父・豊の死後、第八十五銀行の取締役[21]を経て副頭取となる[22]が、1927年に死去。重要文化財の旧山崎家別邸は、5代目嘉七の隠居所であった。
  • 次男・由次郎(明治5年9月生)
    • 岩出惣兵衛の養子となり、後に惣兵衛を襲名[1]
  • 孫・6代目嘉七(明治25年(1892年)7月8日 - 昭和63年(1988年)4月11日)
    • 幼名・堅治。5代目の死後に家督と名跡を継いだ。第八十五銀行頭取、埼玉銀行頭取、川越市議会議長などを歴任し、川越名誉市民に推挙された[23]

脚注

参考文献

外部リンク

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