山崎豊
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天保2年(1831年)11月18日[1]、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎[2]。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した[3]。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。
山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した[2]。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した[2]。慶応3年(1867年)には川越藩の御用商人となり藩に献金を行い、帯刀の許諾や紋付上下の拝領などといった恩恵を受けた[4]。
明治に入ると、川越の経済活動の中心的人物の一人となった。学制発布にあたって横田五郎兵衛・栗原与らとともに資金を集め、志義町の烏山稲荷神社境内に志義学校を創設した[5]。
明治11年(1878年)には第八十五国立銀行の設立発起人の一人となり、取締役兼支配人に就任した[6]。明治25年(1892年)には同行の頭取に就任[7]、さらに明治31年(1898年)に民営化によって第八十五銀行となったのちも頭取の座にあった[8]。
この時期、明治16年(1883年)には家督と嘉七の名を息子に継がせ[9][10]、以降は豊の名で活動した[11]。
明治29年(1896年)には第八十五国立銀行の個人貯蓄部門の性質を持った川越貯蓄銀行を創設、両行の頭取を兼務した[12]。大正7年(1918年)の時点で資本金100万円という資本力を誇った第八十五銀行は豊の財力・経営手腕に多くを負っていた。
明治33年(1900年)には埼玉県で最初の川越商業会議所(現在の川越商工会議所)を発足させ、初代会頭となった[8]。明治42年(1909年)には埼玉県知事から産業功労者として表彰された[9]。
豊は川越藩士だった橋本雅邦と交流があり、その縁で雅邦作品を頒布する画宝会を明治32年に結成した[13]。豊は雅邦や菊池容斎、川合玉堂の作品を蒐集した。それらは豊の生誕150周年を記念して、昭和57年(1982年)11月3日に開館した山崎美術館で見ることができる。