横田五郎兵衛
From Wikipedia, the free encyclopedia
横田家は佐々木高綱の家系で[3]、近江国の横田という土地を拝領したことから、これを姓としたという[1]。12代目のときに武蔵国川越に移り住んだ[4]。江戸時代前期、川越藩主松平信綱の時代に米穀商を始めると米や椎茸の相場で財を増やし[5]、享保年間には金融、明和年間には酒・醤油製造などにも進出し[6]、寛政3年(1791年)には町年寄を務める名家となった[4]。祖父・五郎兵衛政忠の時代には川越藩の御金御用達となり[5]、帯刀の許可や30石の知行を得ている[7]。
天保5年11月22日(グレゴリオ暦1834年12月22日)、五郎兵衛は横田家の23代目[8]として川越に生まれた。幼名は恵造。成人して次郎吉[注釈 2]と名乗った。字は政徳[11]、また雅号として共穀(きょうこく)を用いた[12]。数え12のときに父が死去し[4]、横田家当主の名跡であった[9]五郎兵衛を名乗った[1]。
藩主・松平斉典の時代に横田家は隆盛を極め、江戸を除く武蔵国で最大の商家となった。当時の豪商を番付形式で列挙した『関八州田舎分限角力番付』では、東の横綱として掲載されている[13]。江戸蔵前、大阪堂島の米相場を動かす財力で[4]、川越藩の藩財政を支えた。幕末期に川越城下の土橋で人馬がケガをしている様を見て、五郎兵衛は自費で石橋に変え、橋は「横田の石橋」と呼ばれた[14]。
しかし藩の借金を肩代わりしたことなどがたたり、家業は衰退した[14]。藩主も訪れたといわれる別邸[15]は料亭に払い下げられ現存している[16]。
御用商人としては没落したものの、その後も川越においての活動は続いた。明治維新後、川越の戸長に推挙され、さらに入間県会議員も務めた[17]。学区取締、地価修正委員など公職を歴任した[14]、1875年(明治8年)には山崎豊らとともに志義学校を創立した。1879年(明治12年)に第一回埼玉県会議員となった[18]。
1878年(明治11年)には埼玉県で唯一の国立銀行・第八十五国立銀行の設立発起人の一人となり[19]、店舗用地として横田家の所有地を提供した。銀行設立後は1882年(明治15年)に副頭取[20]となり、さらに頭取であった黒須の死去に伴い1887年(明治20年)には第2代頭取に就任した[21]。
1892年(明治25年)5月29日[22]、数え59の年に川越で病没。養寿院に埋葬された。戒名は興泰院天涯日誉居士[17]。