山根卓二
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陸軍獣医中将、戦後は日本動物薬事協会理事長を務めた山根定吉の二男として生まれる[1]。東京出身[2]。
旧制松江中学校から東京陸軍幼年学校を卒業。終戦時は陸軍士官学校の2年生であった。
第一高等学校を経て[3]、東京大学文学部を卒業後[4]、1953年に産経新聞社に入社(同期に俵孝太郎)。政治部長[4]、取締役を経て、1982年には常務取締役東京本社編集局長に就任した。しかし、レフチェンコ証言で、「協力者」として名指しされ、社に迷惑をかけたことなどを理由に、1983年4月22日付けで辞任[5]。後任の編集局長には藤村邦苗フジテレビ取締役・報道局長が現職のまま同日付けで任命された[5]。
その後、西友顧問、日本衛星放送(現・WOWOW)取締役などを歴任[4]。1994年6月テレビ埼玉社長に迎えられ[4]、6年務めたあと会長に退いた。
レフチェンコ事件
「周恩来の遺書」記事
山根は、東京本社編集局次長時代の1976年1月23日付サンケイ新聞(当時の題字)で中華人民共和国の周恩来元首相が遺書を残し、その中で毛沢東が死ぬ直前に中華人民共和国の指導部内で深刻な対立があったことを示唆した「周首相が"遺書"を残した?」との署名記事を書いた[5][6]。この記事の中でニュースソースは『ある筋としか書けないのだが』としていた。
レフチェンコ証言
1979年10月、ノーボスチ通信の東京特派員だったスタニスラフ・レフチェンコが、自身の正体をKGBの少佐であると明かして駐日アメリカ合衆国大使館に亡命申請をし、即座に認められアメリカへ亡命した。その後、アメリカではレフチェンコを議会に招喚し秘密聴聞会を行った。1982年7月14日、レフチェンコは米国下院の秘密聴聞会で日本のジャーナリストを操っていたと証言。さらに「大手新聞社の工作員1人はオーナーがきわめて信頼を寄せる人物であり、ソ連がこの新聞を通じて自国に有利な政治状況を作るのにその工作員を利用した」とし、「彼(工作員)は『周恩来が遺書を残している』という記事を書いたが、これこそ1970年代にソ連が捏造したものの中で最も成功したケースであったと[7]、上記山根が書いた「今日のレポート」を指し示しながら証言した。
スクープ
このレフチェンコ証言を当時毎日新聞の特派員であった古森義久が1982年12月2日にスクープとして報道した[8]。一週間後に公開された当該聴聞会の議事録では山根の書いた「今日のレポート」が添付され、ねつ造(FORGERY)のスタンプが押されたものだった。1987年、古森は当の産経新聞に引き抜かれ、ロンドン特派員を経て、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員に抜擢され、現在に至る。